本

『<ひと>の現象学』

ホンとの本

『<ひと>の現象学』
鷲田清一
筑摩書房
1900\+
2013.3.

 現象学の手法を、哲学者の研究のためではなく、いまこの時代のこの状況の中で自分なりに用いて考察するという著者のスタイルを生かして、「ひと」というあり方について探究した力作であろうかと思う。
 それは系統だった体系を目指すものではない。章立てからしても、「顔」「こころ」「親しみ」「恋」「私的なもの」「<個>」「シヴィル」「ワン・オブ・ゼム」「ヒューマン」「死」と多様である。筑摩書房のWeb版記事の原稿を加筆・編集したものであるというから、その都度記したものを、本としての形を考えてまとめたと言えるだろう。曲がりくねった道を歩きながら、読者として私も同行させて戴いたという印象である。
 私たちは「ひと」というテーマを、しばしば「自分」のことだと了解して考えているようにも見える。
 執筆より以前、多分に平成という年号が始まった辺りから、妙に「自分探し」というキーワードが世の中に定着してきたような気がするが、これもまた考察の重要なテーマになりうるものであっただろう。だが自分というものを知るには他者から見た自分というあり方を外すことはできないし、自分という「個人」がまずあって世界を認識しているというような「不自然な」設定から世界認識をひとはしているのではないはずだ。自分を探しているその自分とは一体誰なのだと問われたら、それだけでもう動けなくなるような「感傷的な運動」であったかもしれないし、何かしら現実逃避だと指摘されても仕方がないような一面があったかもしれない。
 そうだとしても、「生きづらさ」という言葉がその後席巻して、重苦しい閉塞した時代を覆っている一面もある。
 そんな問題意識を持ちながら、筆者の旅に同席させてもらったというのが私の読み方であった。
 哲学的な難解な用語を極力省いているようでありながら、その実哲学的な思考を前提としているような書き方がなされているために、ある程度慣れないと読みづらいことだろうとは思うが、ひとたびその言葉の使い方を感じとるならば、おそらく楽しく読み進められるものだと思われる。
 顔との出会いは、その相手から見られているという事態を避けることができない。私は、神の顔を見た者は死ぬという旧約聖書に幾度か出てくるフレーズを思い起こした。神の眼差しに直面したとき、ひとは己れのすべてを見通された者として、行き場を無くしてしまうのかもしれない。
 しかしその神の「みこころ」を知りたいと古代人ならずとも願うことがある。ひとならば、顔は仮面に過ぎないと見過ごすことも可能だが、神はその仮面を、ペルソナという形で迫る。神の心をすべて知ることは無理であっても、神は私の心を知ることは理解できる。神が私の心を知っているということは、恐怖であると共に、信頼の核心ともなりうるであろう。
 こうした見方は、筆者のものではない。筆者はこのテーマを過ぎると、家族というあり方について考え、現代の家族が変貌してきた点を指摘する。社会の冷たい他者とは違うが、ある種の他者との出会いの中へ私たちは生まれ落ち、気づいたときにはそこにいた。そこからまたより広い社会へ出て行く際には、愛と憎しみとの葛藤を体験しつつ、傷つき出会いながら、新たな世界を覚えていくことになるのだろう。
 そして社会と個人との関係、そこで認め合うべきものとしての自由へと眼差しは一つひとつの点に留まり、深まり、あらん限りの思索をもってそれぞれと触れあっていく。信仰であれば、信仰共同体の倫理や、キリスト者の自由という問題を添えて読み進むと面白いだろうと思う。続く市民権の問題も同様である。哲学で言うならば、思弁的な形而上学のテーマから、一気に社会哲学を論じるような場面になるのであるが、しかしいつでもそこには「私」ないし「自己」という核心がある。それは「人間」とか「人権」とかいう問題についても、厳しい指摘を怠らない。私たちが、安易に口にして、さも唱える人間が善人であるかのように振る舞っている、社会的に心地よい言葉の陰に、どんな魂胆が隠れているかさえ暴かれていくのだ。
 たとえば「多様性」は、現代社会では「良心」の別名であるかのように受け取られており、「正義」の別名であるかのように理解されているのだという。だが筆者は、その「多様性」をどこから見てそのように言っているのか、という点を問い、ありがちな「多様性」のキャンペーンは、他者を理解しようとしてのことではない、と手厳しく断じているように見える。
 最後には「死」が、他者の死を通して、そのひととの関わりは、そのひとが「死者」として私の内に生まれなおすという営みについて考えさせてくれる。喪失する不安が、単に他者を喪うことについてのみならず、自分を喪失することに関わっているのだろうというのだ。ここには、「復活」についての一つの現代的な理解のヒントがあるような気がしてならない。自分が生きているのは、生かされていることであり、そうでなければ自分は死んでいるのも同然に過ぎない。神という相手、イエス・キリストという「あなた」との関係がまずあったときには、すでに確かに生きていると言えるのだ。古くから言われるように、私たちは自分の死を経験することはできない。ひとの存在はそのような有限なものとして理解していることは確かだが、死そのものについては他の事柄のように経験的に語ることができない。現代社会が、この死をすべてシステマチックなものの内部で処理してしまい、恰も私の死が組織の仕事の一つであるとしてしか意味をもたないことになったら、すでに私は死んでいるようなものとなるであろう。聖書が繰り返し伝え、注ぐと約束している「いのち」は、それとは対極的なものであるとは言えまいか。神の国という共同体は、私の「いのち」を無意味なものとさせることが、必ず、ない。
 私は、そのように受け止める可能性が拓かれたような気がする。本書は、誰が何を考察しようとしても、示唆に富み、視点を新たに得ることを促してくれるものであるのではないか、と期待できるものだと捉えている。




Takapan
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