本

『人が神にならないために』

ホンとの本

『人が神にならないために』
荒井献
コイノニア社
\1700+
2003.4.

 コイノニア社はその後会社を閉じている。このシリーズは、著名な牧師や神学者の説教を選抜し程よく集め、多数の説教者を紹介するのに優れている。読者は、全集のように多額の支払いを覚悟してようやく一人の説教に触れるということなく、手近な価格で一人ずつ味わっていくことができる。私もその恩恵に与った一人である。そしてここに、牧師ではない学者の荒井献氏の説教を読むこととした。
 その教会では、月に一度、牧師でない人が説教壇に立つことになっているという。著者だけとは限らないが、時折講壇に立つことになるわけで、その時の説教がこうして集められたというようである。
 持ち味というものがある。著者の場合、グノーシスあたりの文献についてのエキスパートであり、そこを語れば夜も明けようというものだが、見る限りその点を表に出すことはない。むしろ新約聖書の釈義をきちんとなし、しかも、ありきたりの教訓めいた結論にするこことなく、独自の視点や解釈を提供するという意味では、気を緩める暇もないくらい大変な会衆並びに読者だということになるだろう。
 そして、政治的な発言が随所になされているのも特徴であろう。事件にまつわる世情のようなこともあるし、科学技術に対する見解も表しているのだが、もっと政治的な意味をもつ内容に連ねていくという場合が多く見られる。また、そうした発言をすることの是非が問われることもあるだろうという観点から、そうすることの意味を説くという場合もあることになる。キリスト教会は、世に対してひとつの姿勢を以て発言していくべきではないのだろろうか。
 けれども、その土台には、聖書に対峙する真摯な姿勢がある。とことん聖書と向き合い、そこに解釈の楔を打ち込み、得られた力を以て、世に向けて切り込むのだ。
 否、教会というものはどうあるべきか、と言うと語弊があるだろうが、教会共同体の使命というものについても、考えを明らかにしている。礼拝では、この説教の後に分かち合い意見を述べ合うひとときがあるそうで、その時にこの続きを話して戴きたいという、特殊な振りも見られるが、それもまた説教のひとつの形としてありうるものであるだろう。説教者は説得をしようとするわけでなく、問題提起をするに過ぎないということ、しかし説教者の立場や考えは明確に伝えておきその責任は受けるという姿勢である。
 ではこの本のタイトル「人が神にならないために」とは何のことであるのか。それは最後の説教において明らかにされる。まさにこの説教題によるその内容は、神が人となったいわゆるクリスマスの出来事についてであった。そして、マリアの、社会に対する強い姿勢に気づかせつつ、権力が自らを神としようとしていることに目を向けることを提言するのであった。そこにマリア崇拝の危険性も織り交ぜながら、神の言葉の前に出る人間でありたいとする私たちの姿勢を確認し、人が神にならないようにと告げる。そのためにこそ、神は人になったのだ、という印象的な結びで、その説教、そして本書は閉じられる。
 1989年から2001年までに語られた説教15編が掲載されているが、その殆どが、直に母教会で語った、熱い思いを含むものである。自分の生い立ちに触れるものもあり、バランスもいい。社会的な内容をも受け止める心のゆとりがあるならば、福音の理解と重ねて味わうことができるだろう。それにしても、私が手に取ったのが、これらの説教から四半世紀を経たというケースもある中で、当事の社会や世相に訴えたこれらの思想を、今の私たちが乗り越えているのか、解決しているのか、と言われたら、実のところ全くできていないし、そのうえさらにその問題を放置し深く厄介にしているのではないか、と思い知らさせた気がす。いったい私たちは何をやっていたのだろう。これらの警告が、全く水に投げられたパンのように意味なくなっているのではないだろうか。それを思うと、自分たちの反省として、もう一度これらの説教の言葉に教えられねばならないことを強く示されたのであった。




Takapan
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