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『非社交的社交性』

ホンとの本

『非社交的社交性』
中島義道
講談社現代新書2208
\740+
2013.5.

 著者について説明することはこれまでも幾度か繰り返しているので、あまり深入りしない。哲学者である。そして、ありきたりの道徳を駆逐するような激しい当たり方を社会に対してする人である。しかしそこにはひとつの論理があるし、少し変わり者と呼ばれる人々からはけっこうな支持がある。私もその内のひとりであるから、共感できる部分は少なくない。
 これがカント学者であるのだから、また面白い。哲学塾を独自に開いており、アカデミックなところからはみ出している。いや、それでもアカデミックなところにたっぷりといたのであるから、さて、カントほど原則に従っているのかどうか、その辺りは分からないとしておこう。
 本書は、カントのひとつの用語「非社交的社交性」をテーマに、自在に語ったエッセイだと見てよいだろう。つまり、学術的な要素はないと見るべきである。中にはそれを期待して買い求め、失望した読者もいるようだが、その用語のタイトルからひとつ予想できる哲学議論ではない、ということは、確かに表に出しておくべきだったかもしれない。
 サブタイトルは「大人になるということ」とあるが、これも、読んだ後ではなるほどと思うが、これから読む人にとってはイメージがつかめない言葉である。ということで、販売戦略としても、もう少し売り方があったのではないかという気がしないでもない。
 前半は、まさに「非社交的社交性」という語を巡って、カントのことから話が始まる。カントは堅物であった。だがまた、妙に社交的なところがあった。少しばかりカントを読んだ者として、それくらいは分かっている。カントは引きこもっていたわけではないのだ。しかし、自分の生活のペースを乱されることについては神経質に気を使い、例の、町の人がカントを見て時計を合わせたというエピソードにあるように、自分の生活を貫いていたことも確かである。その辺りの事情がたっぷりと説明される。が、そればかりでは読者は退屈するだろう。
 実はここは、殆どが2010年に西日本新聞に連載されていたコラムである。多少編集しているようだが、これは私も目にしていたことになる。そのとき真剣に読んでいなかったのは間違いないから、ここでまとめて読んだということでお許し戴きたい。  後半は、著者自身のことがだんだん語られるようになる。結婚と、離婚でないような離婚のことなど、私はそこまで著者のことを知ってはいなかったので新鮮だった。ドイツの文化が紹介されていて、面白い。それがまた、本書のテーマに沿うものであるから、比較的自由にいろいろ書かれてあるものとして、ここまでは、まだまともだった。
 だが、書き下ろしとしての後半が凄まじかった。ここにあるのは、徹底した若者批判である。否、批判というよりは、どうやらねちねちと本の上でいたぶるようなふうにも見えるものである。せめて「いじり」とでも称したほうがまだ柔らかだろうか。
 ここに並べられた野は、基本的に「哲学塾」に実在した人々のことである。若者、と呼んでおくが、それなりの壮年も含まれる。個人が開いている哲学塾は、志す人であれば誰でも参加してよいことになるからだ。これらを本書ではさしあたり「若者」と呼ぶ。彼らは「生きにくい」人々である。
 彼らは人生を問う。真摯に問うている。だから、生きづらい。自己の中に何か疑問や問題意識が生まれても、世の中では適当にそれを忘れてやっていくのであれば、そんなに悩まずにすむ。ハイデガーなら「頽落」とでも考えただろう、その生き方は、哲学的にはまさにそうなのだが、実社会で真剣に問い続けると、まともな社会生活ができないという場合がある。世で哲学者が馬鹿にされたのは、タレス以来宿命である。著者自身もまた、その一人であることもまた、否定できない。だが、哲学塾に集まる若者たちのその様子は、著者をも嘆かせる、どうしようもない代物だというのである。
 この例をここで挙げることはやめておく。言葉通りの意味にしか解さず、何かしら察することもできず、それもわざとというよりは、確信犯的に本当に分からないようなのである。一昔前であるならば、「非常識」の一言で終わったであろうその実例の数々であるが、それを一つひとつ、食らいつつ教えつつも諦めながら対応する著者の姿勢は、主宰者としては当然かもしれないが、それなりに教育的である。「分からないならば哲学塾をやめてください」と度々告げ、たいていはそれでやめてしまうなど、よくぞこれだけ多くの問題児がいるものだとも思えるが、考えてみれば、そうした素質があるからこそ、哲学塾に集まってきていたのであろう。どちらの気持ちも、私は分かる。
 そして著者は、こうした理解不能な言動をとる若者たちのことを、なんとか理解しようと努め、その原因を探る。人間は異様な現象に遭遇したとき、何かしら理由を決めることにより心の安定を図るという法則に沿った形で、著者は推測から理由を考えているようにも見えるが、それは根拠を問うカントからすれば、まだまだ仮説の域を出るものではないであろう。だから、読者は、こうした若者の実例を見て、そこに何があるのかを、それぞれの得意分野から割り出そうとしてみるのも面白いかもしれない。心理学的でも、教育学的でも、社会学的でも、いろいろ検討ができそうな気がする。
 それでも、世間一般の若者が皆、ここにあるような反応をするわけではない。あくまでも特殊な事例ではあるだろう。ただ、こうした要素がどこかにありながら、表向き常識的に振舞っている人が多いという可能性は、否定できないと思われる。そういう意味で、ここにある事例を、サンプルとして考えてみるのはよいのではないか、と思ったのだ。
 さて、これらの若者に対応する著者は、かつて世間に向けて当たり散らし吠えていた人と同一人物であるのだろうかと思わせるほどに、時に非常に常識的なことを若者に説いて聞かせようとしている。著者もこのとき67歳、まさか人間がまるくなったということなのだろうか、とも思わせるものがあった。だが、一刀両断に、自分の気に入らない連中を斬り捨てるような筆致そのものが変化したようには見えなかったから、これはこれでよいのだろう。どうかすると、著者に言っている方に無理があるのではないか、と思うこともあったし、そこまで言わなくてもいいのではないか、と、批判されるほうに同情したくなることもあった。そもそもどこかで、時代のなせる業なのかどうか知らないが、一定の溝があるのだろう。それも、私がこの若者と共通項があるから、そのように思ったのかもしれないから、著者のことをとやかく言える立場ではない。私も、ずいぶんとおかしい。
 すると、サブタイトルが急に生きてくる。「大人になるということ」と書かれていた。私もまだ、大人になっていないのだというところなのだろう。そう言えば、「もっと大人になりなよ」という言葉も世の中にはある。その意味も、ここには重ねてみてよいかもしれない。それだけではもちろんないのだけれど。




Takapan
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