本

『密やかな結晶』

ホンとの本

『密やかな結晶』
小川洋子
講談社文庫
\820+
2020.12.

 海外でも評価が高いという、ミステリーじみた長編小説。「記憶狩り」という、由々しき事態がその島にあるという。ある日物が消えるのだ。そして、消さねばならない。「秘密警察」が嗅ぎ回り、消さねばならない記憶を保とうとする分子を引っ張っていく。情け容赦なく働くその活動は、エンデの『モモ』の灰色の男たちを思わせるようでもあったが、描かれている様子からすると、戦争時代の憲兵やナチスを思わせるような迫力があった。そこには人間らしい感情というものが全くないのだ。
 1999年の文庫の文字を大きくして新たに発行したという。例によって、小川文学にはしばしば、登場人物に名前がない。「わたし」は物書きではあるが、名前として活躍することはない。読者もまた、いつでも「わたし」になることができる。わずかに、消された隣人の乾という一家の名と、地下室にかくまい複雑な関係になる編集者がR氏とかろうじて呼ばれる程度。このR氏と、重要な役割を果たす「おじいさん」と「わたし」とで物語は回っていく。そして視点は常に「わたし」である。
 これは容易に想像がつくように、アンネ・フランクの姿である。小川洋子さんは、ひときわこのアンネの日記には思い入れがある。関係者との面会も果たしているし、何十回読んだか知れないという。
 この「わたし」もまた、抵抗しつつ、記憶が怪しくなっていく。母親の記憶から物語が語られ始めるのだが、危険を冒してその母親の生きた痕跡を一度調べに行くのだが、謎のものを運ぶのは、見つかればどうされるか分からない恐怖を内に懐きつつ、スリリングな思いが漂う場面でもあった。
 不条理なことが次々と起こる。これは村上春樹の世界にも通じるものがある。ただ、村上春樹の場合に、物語の中に思い入れや思想性があるということは見られないし、いや、それをもたせていたとしても、作者はそれを決して語らない。しかし小川洋子の場合には、随所でこのエッセンスは口にしている。もとより、物語の要点をまとめることができる、そんな物語は書く意味がない、という持論をお持ちなので、このエネルギーたるものは、決して要約のようなものではない。動機ではあるにしても。そう、それがやはりナチスのしてきたことである。本を焼くのも、秘密警察も、確かにそれっぽい。これへの怒りのようなものが根柢にあることは間違いない。そして、だからこそ、海外で評価されたのだろうと思う。
 しかし、怒りだけで物語はできない。だから、読者のほうでも、ただ怒るというようなことで本を閉じるわけにはゆかない。最後の場面でも、決して見た目は救われたようなものにはならないのであるにしても、そこにこそ、タイトルを読者は脳裏に浮かべるべきなのである。一度も登場しない、「密やかな結晶」たるもの。宝石が物語を動かすこともないのだ。「密やか」は、やはり隠れているという辺りとイメージは合うだろうが、「結晶」とは何か。
 残念ながら、それをここで明かすことはできない。脚本や演出の立場から、鄭義信さんがその辺りのことを「解説」で記しているので、どうぞ作品の読後に見て戴きたい。作者本人に尋ねたとき、作者がどう答えたのか、はっきり書かれている。
 小川洋子さんの文体は、ひとつには、非常に具体的なことである。抽象的な引っ張り方をしないし、抽象的な言葉で説明しようとはしない。誰が何をどうしたのか、いつも具体的に描く。その視覚的な要素ももちろんだが、聴覚的、また触覚的なものもいつも逃さない。その中で、消えゆくものをも、質感たっぷりに描くという力量に感服する。そして、最後のほうでは肉体までが消滅の危機に遭いながらも、言葉を紡いでいこうとするその鬼気迫るような(物語上そんな雰囲気は全く出さないのだが)生き方の中に、小説家としての作者の気概を感じるとともに、私たち読者もまた、言葉を出していけるのだという思いに胸を熱くするよう促されているような気がしてならないのである。
 そんな思いを懐きながら、私の心に残った叫びを、シチュエーションの説明なしで、いくつか並べてみる。
「分りません。消えない心がそのまま生き延びることのできる場所が、どこかにあるのかもしれません。けれど誰も、そこに行ったことはないのでございます」(p184) 「覆いかぶさっていた古い時間の幕が少しずつはがれていって、輝きが戻ってくるんだ。そかもそれは突き抜けてくるきらびやかな輝きじゃなく、もっと慎ましくておとなしくて淋しげな光だ。両手にのせていると、まるで光そのものをつかんでいるような気になってくる。何かそれが僕に物語っているような気になってくる。そしてそれを愛撫したくなるんだ」(p191)
「……光はすぐに消えてしまうし、そうしたらさっき、ここに照らし出されていたものは何だったのかなんてこと、簡単に忘れられてしまうわ。みんな幻なのよ。……」(p414)「そんなことあるもんか。今だって僕たちは、ちゃんとこうして、向き合っているじゃないか」(p415)
 命に絶望しているようなところに、こうした言葉が、光をもたらすかもしれない。悲しい物語であるにも関わらず、希望を与えてくれるかもしれない。私は、そんな希望をもっている。




Takapan
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