『ひらいて』
綿矢りさ
新潮社
\1200+
2012.7.
『生のみ生のままで』『激しく煌めく短い命』でレズビアンの姿を描いた綿矢りさ。十代で数々の文学賞に輝いた才能が進展していると見てよいのだろう。本作は、それらの作品よりも以前のものであるが、しっかりその系統を予告する形になってた。とはいえ、二作が愛し合う女性の姿を描いたのに対して、本作の場合、愛していないところに生じた、いびつな姿を呈している。
舞台は高校。「彼の瞳。」という一行からの書き出しが、読者をぐいとその世界に引き込む。回想は2年前の高校一年生のときの、同じクラスの彼との出会いから始まる。少女マンガとは異なり、この彼は、特段イケメンであるわけでもないし、モテるというタイプではない。ただ、彼のことが気になって仕方がなくなった。
物語は、木村愛の視点だけで語られる。愛は、行動的な女生徒であり、ひとたび思い立つと、ブレーキが利かなくなる。ただ、その彼に対しては、簡単には踏み出せないでいた。一旦クラスが変わり、三年生になって再び同じクラスとなったところから、動き始める。
彼の名は「たとえ」という。一風変わったこの名前にさえ、ときめくものを覚えていたのだが、たとえの机の中を探ったときに、そこに手紙が溜められていることを知る。それを盗み見したら、美雪という女生徒からの愛の手紙であった。
愛の心は、これで火が点いたようになる。愛の中にいる、何かしら狂気とも呼べるようなものが、様々な出来事へと転がり始めるのであった。
机の中のラブレターという設定が事件を起こすきっかけになるのだが、こうした不自然な設定は何故なのか、読者は不思議に思うだろう。綿矢りさの作品は、こうした点を後に回収してくれる。村上春樹だと、こうはいかない。だから、何か読む中で疑問に思ったことがあったとしても、それを心の隅に留めておくとよい。
私はやはり、アンテナがピンと張った気がしたのは、聖書の登場だった。
カトリック系の女子大学に通っていた母の聖書が置いてある。愛は、信仰しているわけではないが、何かしら気になって見開くことを常としていた。その日は「心の貧しい者は幸いです」から始まる辺りを見て、長く引用されている。単行本の42頁から始まるこの場面は、その後再び思い出されることもないかのように、聖書については沈黙してしまう。だが、恐らくこのパラノイアでもないが何か異常な女生徒の名前が「愛」であることは、聖書の登場と何かしらつながりを示そうとしたのかもしれない、と思っていた。
聖書が再び登場するのは、p139である。場面の説明は、ストーリーを明かすことになるので遠慮するが、愛の心に、後悔のようなものが生じたところである。「罪を犯しても悔い改めさえすれば全て許されると、神は聖書の中で言った。でもすべてを破壊しつくしたあとで、懺悔して悔い改めたところで、一度割れた人の心は元には戻らない。罪は罪のまま、罰せられもせずに、永遠に記憶の中に横たわり続ける」と愛が考える。
さらにp157、物語の最終場面に近いところで、聖書を手にしていた母親がいた。これもまた何故、という気がするが、ともかく愛は、その母に、聖書をどこでもいいから読んでくれと頼む。このとき、凡ゆるものが破壊され、絶望的な情況にあった。母は困りながらも、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり……」というやはりマタイ伝の山上の説教からであったが、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」まで、かなり長い箇所を読み上げる。愛は、その途中から泣いていた。「私は神さまなんか信じない。存在しない存在にすがるなんて、みじめだとさえ終えもう。でも、信じられないのに、なにかを信じなければ、やっていけない。"なにも心配することはない。あなたは生きているだけで美しい"と丁寧に言い聞かせてくれる存在を渇望し、信じ切りたいと望んでいる」と愛は心を語る。
これはホラー小説ではない。特別にサイコパスなものを描いているとまでは言えない。だが、底知れぬ怖さが漂っている。よくこうした心理が突き詰めて描けたものだ、と驚く。初出は「新潮」2012年5月号だというが、正にコロナ禍の中で執筆されているとみてよいだろう。あの異常なコロナ禍の中での人間の営みや考え方の変化が、何か物語を生み出す要因になっているのではないか、と思われてならない。しかし、多くの執筆者が、直接感染症や社会の異変をテーマにしてゆくのに対して、そうしたこととは無関係に、綿矢りさはこうした世界を描いた。聖書は、専らマタイ伝の山上の説教に限られたが、「罪」と「悔い改め」を持ち出し、「信じ切りたい」ところにまで上り詰めている。そしてその人物の名は「愛」なのだ。彼の名前が「たとえ」という奇妙な名であるのも、「仮令」の意味だ、という説明もあるにはあったが、山上の説教で頻繁に登場する「たとえ」から来ているのではないか、と私は受け止めている。
終盤の、たとえの父親のエピソードは、伏線の回収のためには必要だったが、どこまで物語に必然的であったのか、私はもうひとつ突き刺さるものがなかったが、愛の中でひとつ結ばれた結果はともかく、たとえや美雪がこの後どうなるのか、不安で仕方がない。だが、人間というものはそのように、ひとつの流れで大団円を迎えてめでたし、とはいかないものだ。私たちのぐらぐらするこの状態の中で、「信じ切りたい」という愛の叫びを、私たちも抱えているのではないだろうか。
この物語を、聖書で読み切ることには無理があるかもしれないが、私はそのように思えて仕方がなかった。

た
か
ぱ
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イ
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