『火のない所に煙は』
芦沢央
新潮社
\1600+
2018.6.
ちょっとこの作家に惹かれている。一読してすっと全部呑み込めてくる書き方ができるというのは、どの作家でもというわけにはゆかない。それでいて、意外な展開やストーリー性という点でも、十分楽しませてくれる。
いわゆるミステリーの部類に入るのだろうが、犯罪のトリックを暴く刑事物ではない。誰にでも心にチクリとあるような、邪魔でもありながらそこから逃れることのできないような、悪とか原罪とか呼んでもよいのかもしれないが、そうした「痛い」ところを突いてくる。それで、つい自分のこととしてその物語にのめりこんでしまうのだ。いや、もはやそれは客観的に眺める物語ではない。そこに自分も飛び込んでしまう。飛び込まされてしまう。そういったミステリーが持ち味なのだろうと感じる。どれも適度に短編なのがいい。一つひとつが、グサリとくる。
しかし、本作品は、何かまた違う。
怖い。
残虐シーンや、超常現象を巧みに描かれても、自分の外の世界にあるものにしか思えないことが多いし、本を閉じれば、ああ怖かった、で終わるものだ。だが、これは違う。本の中の出来事なのか、現実なのか、区別ができなくなるような気がするのだ。
そもそもこれがどこまで本当で、どこからが創作なのか、境界が曖昧すぎる。作家が、新潮社から依頼を受けて、怪談を書いてくれないかということになったが、どうしてよいか分からないので、とりあえず大学時代の友人を介して知った話を文章にしてみた。すると、それに続いて別の怖い話が舞い込んできて、その話を聞いて物語を書く、するとまた……というように、短編が続いていく様子は、実にリアルである。本当にその通りに出来事があったとしてもおかしくなく、ただ正直に人から舞い込んだ話を綴っているというふうにしか思えないのだ。
たぶんそれも計算しての創作に違いないのだが、すべてが創作だと思わせないリアリティが、この本を怖くさせている。
その物語をここで紹介することは、もちろんできない。こうしていろいろな物語の提供があり、中には厚かましい相談がきて辟易したというものもあるが、それぞれ一つひとつが怖い話として連載されていったというふうに、この作品が公開されていく過程までもが見事に物語の中に組み込まれているため、現実と虚構との区別が読者にはつかなくなるのだ。
その怖い話が、一つひとつまたタイプが異なる。しかし、その後その関係者が、何かつながりがあるような形で死んでいくという後日談が混じり、これらの出来事が一本の糸の中に説明されていくようになっていく。それさえも明かさないほうが、本当はよいのかもしれないが、ここに集められた短編は、全体としても連続した執筆の中の出来事であるという以上に、何らかのつながりがある、ということくらいは言っておいても許されるのではないかと思う。また、そのことは、読み進んでいけば分かる。ただばらばらにエピソードを並べたのではなくて、有機的なつながりがあるらしいことは、叙述を見ればきっと分かるだろう。
但し、それがどのようにまとめられていくのか、それは、作家自身も最後に気づくというように、謎に包まれている。つまりこの作家は、自らこのつながりに気づかずして怪談話を集めて執筆していったが、その本当の怖さというものについて、ようやく最後に初めて気づく、というストーリーになっているのである。いや、そんなはずはないだろう。創作とはそういうものではないはずだ。だから、ここにリアリティがあるというふうに言えるのかもしれない。読者もまた、ここに虚構性を感じないように、仕組まれているのだ。
ところで、この本の評価は、ちっとも面白くない、つまらない、と断ずる人がネットには多い。しかし他方、怖いと語る人も多い。二分されているのだ。そう、恐怖を仮想体験して、カタルシスを覚えたいと期待する人、ホラー映画でキャーと言ってスッキリしたい人には、この本は全く面白くないはずだ。どこが怖いのか。世にも奇妙な物語を並べても、解決もなく終わっているじゃないか。これは、突き放して見ているだけで、物語に惹きこまれていないだけの話なのだと私は考える。この結末は、いまも読者に引き継がれているのだ。
お祓いとか占いとか、キリスト者としてはいただけないテーマばかりで、そういうものを信じる暇のない者にとり、ここに描かれた出来事は、ありえないことでしかない。だが、そういう者でも、物語は現実に及ぶ力を感じた。だから、物語が失敗しているとは思えない。
このような評価の二分により、私は気づいた。これは聖書の読み方そのものなのである、と。聖書の世界を、自分とは関係のない物語として対象化して読むだけでは、神を感じることも、救いを体験することもない。ただの物語であり、奇想天外なものや感心する話の羅列に過ぎず、面白くも何ともない。だが、聖書に描かれている世界が現実とつながってしまった者、あるいはその世界に降り立って描かれた出来事を体験した者にとっては、神を感じるのであり、救いを経験するということになるのである。
文学をどう読むか、そこに、聖書をどう読むか、が関係していることは間違いない。宗教的体験もまた、語られたことが現実の出来事となるという経緯に関係している訳である。だから、この本で怖いと感じた人は、きっと聖書をリアルに読めるだろうと私は期待したい。