本

『国家の品格』

ホンとの本

『国家の品格』
藤原正彦
新潮新書141
\714
2005.11

 話題の本、ベストセラーなるものに、飛びつくことのない私である。二年も経とうとしてから、初めて目を通した。
 数学者として、慧眼をお持ちの著者は、作家(新田次郎など)の血を引くゆえか文章もうまく、各方面で活躍しておられる。
 この本がどう当時話題になったのか、覚えていない。ただ売れた、読まれたのは確かである。きっと、日本の伝統を強く主張する派からは、強い支持を受けたことであろう。
 講演原稿を手入れしたものであるということにもよるが、さして論理的に組まれたわけでなく、本を読んでいても話を聞くかのごとく、同じことを繰り返し聞くような印象がある。それで、何を言いたいのかはよく伝わるし、ともすれば、それが真実に違いない、という気持ちにさせられる。
 もとより、その「論理」そのものが、徹底的に非難されているのだ。非論理的な方法で、だめなものはだめ、と論理に頼ることが否定される。およそ数学者に似つかわしくないような展開だが、そもそも公理系の自律が不可能であることが明らかになっている現代においては、論理において根拠を決めることができないことは常識であるとすると、この方法が特に独創的であるとは思えない。
 そうして、日本の伝統が著しく持ち上げられ、日本賛美が延々と続くのである。
 ときおり、唸らせるような着眼を見せるだけに、怪しい箇所も押し切られるような印象を受ける。この、ニュータイプの論理もまた、どこかで破綻しているはずなのだが、それを露見させないだけの文章力を以て、主張が伝わってくる。やはり文学的な才能のある人は違う。
 プロテスタントの、とくに予定説が糾弾され、それによって、西欧論理は破綻すると述べられるけれども、一神教を真っ向から批判するというよりは、その論理性が徹底的に否定されていく。かといって、キリスト教というものをすべて毛嫌いしているわけでなく、新渡戸稲造の『武士道』が一つの理想として掲げられている。新渡戸はもちろん、優れたクリスチャン政治家であった。
 論理が徹底しないゆえに、情緒こそすべてである、という「論理」こそ、最も危ない可能性のある事柄なのであるが、その意味でも、政策的な提案の部分はあまり共感しないで読むほうかよいであろう。また、この本の掲げるムードに酔わされるようなことがあると、この本の中に指摘されている、悪しき民主主義の轍を踏むようなことにもなりかねない。
 取り扱いに注意したい本ではある。
 その一つの例。この本では、ついにそのタイトルの「国家」とは何であるかが検討されることがなかった。そもそも国家とは何かについて、そこが、様々な考えの原点となり、結論を左右するものなのであるが、それが当然誰にでも分かり切ったものとして疑いが差し挟まれていない。この人の考える「国家」の定義には、この人の主張する述語がつながるかもしれないが、他の人の考える「国家」の定義では、この本の述語は、つながらないかもしれないのである。




Takapan
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