本

『緋文字』

ホンとの本

『緋文字』
ホーソーン
八木敏雄訳
岩波文庫
\860+
1992.12.

 小説はあまり読まない。まして、同じ小説を二度三度と読むことは殆どない。だが、この『緋文字』は、これで3度目であろうか。もう少し多いかもしれない。私にとり、引っかかるのももちろんだが、人間性を考える上で、衝動的にでも読みたくなる本である。
 但し、私がこれまで読んだ『緋文字』は、佐藤清訳であった。改版は1955年であるにしても、第一版は1929年である。旧字体は私は全く気にしないが、訳そのものも、まさか昭和になってすぐのものだとは、気づかないほどにこなれた現代語であった。この度、聖書からのメッセージの中でこの本に触れるよう示され、また目を通そうと思ったのだったが、「完訳」とつく新しい訳が出ていることを知り、取り寄せたのだった。
 この「完訳」には、「税関」という序章が加えられている。ホーソーン自身が働いていた環境の中に身を置いて、そこからその仕事や仲間に対する辛辣な言葉を交える文章である。そして設定は、その仕事の中でこの物語の題材を見つけたことが、想像力豊かに物語に仕立てた、という経緯が告白される、という形になっている。これはもちろん、本当のことではない。その狂言回しのような役割そのものが、フィクションなのであるから、なかなか面白い構成である。
 さて、物語に入ろう。もちろん本来ならばその筋を明かすことはしないのが私のポリシーなのだが、本書は枠は言うべきだと考える。これは罪の物語だ。ホーソーンは19世紀の作家であるが、この物語の舞台は17世紀アメリカのボストンである。そういう資料を見つけた、という設定をこしらえたのである。
 清教徒の社会は、道徳に厳しかった。それだから清教徒だったのである。夫の行方が分からない状態のヘスター・プリンに子どもができた。処刑こそ免れるが、獄から出てもなお、緋色の布に金色で刺繍された「A」の文字を大きく入れた服を着ることを義務づけられる。「adulteress」の頭文字である。これは、密通した既婚女性を呼ぶ言葉である。ユダヤ人のマークを付けたなどということも20世紀にあったが、これは単純に個人の排除である。
 娘パールと二人、ヘスターは町外れの藁葺小屋で暮らす。手に職があり、生活はできた。そして後には、その仕事の故に町の人々からいくらか愛されるようにもなるのだが、当初はとにかく迫害だけだった。不道徳な女への差別は凄まじい。なにしろ清教徒であり、いまなおイギリスの植民地であったような時代である。道徳的に厳しいことはこの上なかった。
 相手は誰だ。当然人々は要求する。が、ヘスターは決してそれを口に出さない。
 この町には、若くして優秀な牧師がいた。このディムズデール牧師の説教は、それはそれは素晴らしく、町のヒーローだった。ヘスターに対して精神指導をするように任せられたとき、ディムズデール牧師は寛大な措置を提言する。
 お分かりであろう。この牧師こそ、パールの父親なのである。
 心労もあってか、牧師は、常に胸に手を当てて苦しそうにすることから、有能な医師の世話になる。老医師ロジャー・チリングワースは腕の立つ男で、よそ者ではあったが、信用を得て町に住みついたのだ。この医師は、ディムズデール牧師の秘密に気づき、それをじわじわと責めるように動き始める。
 この辺りで止めておこう。
 それぞれ不幸な道に向かって進んでいくが、純朴で本質を見抜いているような言動をとる娘パールだけが、未来へ向けて歩いて行ったように思えるところが、いくらか救いであったかもしれない。
 胸の内に隠し通したヘスターの中に、どこか敬服すべきものを感じるのは、不道徳だろうか。まことに、どの場面をとっても、ヘスターの態度には、驚かされる。二人の間の出来事については、物語には何ひとつ描かれていないが、この事態の発覚の後に背負うものが、あまりにも厳しく、辛い。私たちは、これを迫害する大勢の群衆の中にいるだけなのだろうか。自分だけは安全なところにいて、高見から物見遊山でもしているだけなのだろうか。
 牧師という立場で隠し通さなければならなかったディムズデールも、そのままでは人生を終えることはできなかったようである。隠し通すべきことと、隠し通してはいけないこととがあるのかもしれない。しかしディムズデール牧師は、最後まで見事な説教を語るのだから、キリスト教の説教というものは、その語る者とどう関わるのか、そういうことも気になった。罪を犯した牧師から洗礼を受けたのは無効なのか、という質問がよく見られるが、たいていは、無効ではない、ということになっている。それと同様に、本人がどうであれ、語る言葉は、神の言葉となりうるというように、見るべきなのだろう、とも思う。
 このような罪を復帰させよ、などと言うつもりはない。だが、この物語の中に含まれている「罪」という問題は、それを取り巻く人々と共に、いま実は最も取り上げられなければならない問題なのではないか、という気がしてならない。いまこそ、多くの人がこの物語に触れ、自分の胸に問い直さなければならないのではないか、という気がしてならないのである。誰にも、罪はあるのだから。そう、胸に手を当てていたディムズデール牧師のように。




Takapan
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