本

『少女のための秘密の聖書』

ホンとの本

『少女のための秘密の聖書』
鹿島田真希
新潮社
\1600+
2014.12.

 さてこれをどう評価したらよいのか、私には文学的な才能がないので分からない。
 聖書についてよく知らない人、あるいはここに描かれている聖書物語を初めて知った人にとっては、それを汲みとった登場人物たちの立ち位置や言葉や行動がどう結びつくのか関連するのか、量りかねることだろう。聖書をよく知る人や信徒であれば、今度は少女の心理や行動の象徴的な意味や、流れていく心の理由や目指すところなどの文学的な描写をどう理解できるのかという点で課題が残るかもしれない。
 それから、これがありか、と思わせたのは、聖書の引用。むさ苦しい大学生のお兄さんと、そのアパートの大家の娘である少女との関わりができ、家賃をもらいに行く度に、旧約聖書の話を、お兄さんが連載的に聞かせるという構成になっているのだが、それがまた、聖書をほとんど引用と呼ぶに近いくらいに、長々とストーリーを載せているのだ。教会にいる者でなければ器にしないうな言い回しも、聖書にあればそのまま掲載している。たしかに、ストーリーのために余分であるようなところは略しているものの、描き方自体はダイジェストではなく、まさに聖書にある通りの神の言葉を忠実にコピーしているように見える。これが、いったい全体の量の何分のいくつあるのは、私は統計は取っていないが、心証としては半分かそれ以上あるのではないかと思う。もし半分だとすると、この本の半分は、聖書本文の引用なのだ。私のように、読み慣れている者にとっては、そこを流しても何が書いてあるのかは分かっているから、全体の読むスピードは非常に上がるが、なんだかそれでいいのか、という気もしてくる。あるいは、下賤な話だが、原稿料の半分は、著作権をもつ聖書の側に与えられなければならないようにも思われるのである。が、そこは作者も分かっている。著作権の切れた、いわゆる口語訳聖書を用いているのである。
 旧約聖書は、いわば人間の悪のカタログのようなものである。決して「聖」などではない。いや、ほんとうはこの「聖」は、品行方正という意味ではなくて、分離しているという原義が濃いわけで、特別扱いをしている意味であるとすれば、小さな民族イスラエルが、神に特別に扱われて、その項のかたいそのままに、神に導かれていく歴史として読んでいけばそれはそれでよいのである。とにかく、ここには、人間の悪辣なものがよく描かれている。この文学作品はそこのところを適用しようとしたのであろう。登場人物たちの罪が、その都度引用されて話し聞かされていく旧約聖書の物語とリンクしていくところが、効果的でもある。
 だから、聖書の紹介として、およその内容は相応しいとも言える。少女がそれを受け止めながら、自分の感覚で読み解いていくわけで、独特な面があり、偏っていたり方向が誤っていたりもするのだろうが、小説を読もうとした読者は、いつしか聖書を読まされていくことになるからくりがあるのかもしれない。が、ここで問題が起こる。文学というものはそういう面でもなければならないのかどうか分からないが、内容が非常に性的なのである。露骨な表現もある。また、人間が動く場面には、ずっと性的で卑猥なものが流れ続けているのであり、これは小中学生が目にするのはよろしくないような内容となっているのである。別のテーマでこのような構成の小説にしていたのだったら、また子どもがストーリーとしても受け止め、その中で聖書を知っていくことになったのかもしれないが、残念ながら小説自体は大人を対象としてしまっている。また、教会で勧めるようなものにもなりそこね、堂々と、お読みくださいと言えないような空気を宿してしまったことになる。
 登場人物たちのリアリティもあまり強くない。そこがまた狙いであるのかもしれないが、誰もが漂う波間の漂流物のように、つかず離れず、少女を除いてさして悩まず、いや少女自身もこれは悩んでいるのかというようほどに、その酷い体験の連続の中で冷静に世界を見つめ、どこか乾いたような眼差しで淡々と進んでいる。繰り返すが、こういうところが作者の狙いであるのかもしれないわけで、だから私は文学的な才覚がないことを辛く思うことになるのだ。
 なお、著者自身もクリスチャンであり、そうでなければこれだけ聖書を操る文章を綴れないわけなのだが、ただしロシア文学への傾倒から、正教会に通い、信仰をしているのだという。文学的傾向も、実験的であったり前衛的であったりするような話を聞いたことがあるから、作品としての一つの可能性であってそれはそれでよいのであるが、どうなのだろう、聖書の使い方としてこういうのがありなのかどうか、やはり私はそこのところで悩んでいる。




Takapan
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