本

『ひめゆり学徒だった山内祐子さんが沖縄の高校生に伝えたこと』

ホンとの本

『ひめゆり学徒だった山内祐子さんが沖縄の高校生に伝えたこと』
渡邉考
講談社
\1400+
2025.8.

 山内祐子さん。「さちこ」と読む。沖縄の向陽高校の生徒たちが、沖縄戦のことを調べたいという動きがあり、97歳の元学徒隊であった山内さんが、こうして伝えるためにこしらえていた絵を使って、紙芝居形式で語る。それを綴った本である。比較的大きな文字で、ふりがなも振ってあるため、小学生でも読めるだろう。また、小学生が読むに耐えるように、残酷な表現はとることなく、子どもを強く意識して編集されている。安心して、薦められる良い本となっている。
 ひめゆり学徒隊。高校生の年代であるため、訪問した高校生たちにとっては、リアルな存在である。だがそのリアルさも、理解できないもやの向こうにある。どうしてそんなことができたのか。高校生たちも、もちろん下調べはしている。だが、実際にそれを体験した人から直接聞くというのは、調べたという程度ではない何かを受け止めなければならないことである。他人事ではない、という意識もあるが、あまりに世界が違う。
 本書の「まえがき」には、二十歳前後の子どもたちをもつ著者が、沖縄戦についてのあらましを紹介すると共に、パレスチナの報道を見て、それが遠い国、遠い時間の彼方にあるものではない、と感じたことを告げる。それは、読者にもそう捉えてほしい、という思いなのであろう。
 著者は、NHKのテレビディレクターであり、そこから幾冊かの本も著している。幾多の企画が身近にあっただろうし、沖縄戦も、その一つと言えるかもしれない。だが、長崎や被爆者と差別を受ける人などとの関わりがあるし、カンボジアに関わる神父との出会いもあることが、その仕事から窺える。沖縄に関する眼差しは、決して思いつきでもないし、ただの仕事の上での義務などでもない。
 山内さんの語りをただ掲載するのではない。それを伝えると共に、高校生たちの反応を、その写真も交えながら、確かにひとつの番組を見ているかのように報道しているようにも見える。高校生たちは、分かったような口は利かない。正直に、知りたいという気持ちを示すし、もっと聞きたい情況を問い尋ねもする。どうしてそんな考えに染まっていたのか、従うばかりで抵抗はできなかったのか、そうした疑問も呈する。それは、読者の疑問でもあるだろう。どうして目の前で死んだ友だちのために泣き悲しむようなことがなかったのか。そういう問いがあってもいい。もちろん、山内さんの答えは基本的にはっきりしている。そのように悲しむというのは、自分がその悲しみや危険の外にいる場合なのだ。悲しんでいるゆとりなどないのである。
 しかし、沖縄戦については、私はそれなりに調べたことがある。それを知りたくて、新婚旅行で沖縄を選んだほどだ。当時は、そこでなければ入手できない写真集もあったのだ。たぶん。
 だから、山内さんの証言そのものは、確かいつか聞いた話であったと思う。その背景や、もっと悲惨な話もたくさん耳にしている。だが、その証人を目の前にして聞いていた高校生が感じた空気は、私は感じることができない。その意味でも、本書の、高校生と著者による「証言」は、貴重である。
 子どもが読むことができるように、との配慮については先に触れた。だが、学徒隊としての体験は、戦地での生々しい、辛い体験だ。思い出したくもないことが多々あるだろうに、それを伝えなければという思いの強さとその勇気あればこそのものである。それでも、そこで見たものしか伝えることができない。日本兵たちの自決の音が聞こえた、というのも怖いことではあるにせよ、集団自決のような現場に立ち合うことはなかったであろう。本書には、集団自決という有様については殆ど言及されないのであった。もちろん、その事実については触れているが、その詳細が語られることはない。そして、それはそれでよかっただろうと考える。
 教師や友だちと、最後に自決しようと決意していたとき、奇蹟が起こる。アメリカ兵が現れたのだ。平和な形で。手榴弾はそこに置かれ、皆は助けられる。このとき、ひとりのアメリカ兵が、山内さんに十字架のネックレスを握らせた。そこに、確かな光を見たのは、私だけだっただろうか。
 本書は、紙芝居の物語の、その後のことも描く。また、他の証言者のエピソードにも触れる。沖縄戦には、たくさんの証言がまだあり、私たちが聞くべきことは、まだまだあるということが示される。
 ここから先は、読者が立ち入ろうとしなければならない。一歩を踏み出さなければならない。もし、これから沖縄戦のことを少しでも白うと思う人がいたら、本書はきっと、その気持ちに相応しい本であることができるだろう。




Takapan
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