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『暇と退屈の倫理学 増補新版』

ホンとの本

『暇と退屈の倫理学 増補新版』
國分功一郎
太田出版
\1200+
2015.3.

 哲学はこうありたいとさえ思う。日常私たちが見過ごしていること、しかしその背後に何が隠れているかを見抜こうとする。原理的説明という意味では、古代ギリシアと変わっていないのかもしれないが、それはそれでよいと思う。
 ただ、國分氏の説明は非常に長い。それは、抽象的な議論を避けようとし、また注釈を参考にして読めというような態度を取るのでなく、ひたすら一読しただけで思考の溝を全部辿ってほしい、そして重要点を誤解なく理解してほしいというためであろうかと思われる。従って、何度も同じところを強調し、その議論を振り返る。そのことを考えるために具体例を出す手間を惜しまず、その例すら幾度も繰り返す。場合によってはくどいとすら思えるが、実はこれは、教室の授業風景では普通に見られることだ。重要点もそうでない点も一様につらつらと喋っていては、聞くほうはどこが大切かが分からない。鍵になることはくどいくらい繰り返すべきなのだ。本書のような、語りかける哲学においては、そのように話してくるものだから、文字数がやたらと多くなる。分厚さからすると、内容より遙かに大部になったようにも見えるが、その分比較的安価に留まっているとも言えるから、それはそれでありがたいことだと言えるだろう。読み進むことにおいても、そのまま理解していけるから、時間がよけいにかかるという印象はない。
 さて、本題になかなか入れなかった。ここで取り上げられたテーマは「暇と退屈」である。しかしこれに深入りすると、実に壮大な風景が見えてくる。もちろんそれだから著者はこのテーマに没頭したのだろうし、このような形で表明することにしたのだろうと思う。その過程をここで再現するつもりはない。それはお読み戴くことでしか得られない快感である。が、流れだけはお伝えしておこう。
 章そのものは、「暇と退屈の」という枕詞がついた中で、原理論・系譜学・経済史・疎外論・哲学・人間学・倫理学と銘打って並んでいる。確かにそうした「学」を以てタイトルにすることは可能だと思うが、読む側としては、あまりその看板に関係なく読み進んだらよいだろうと思う。「暇と退屈」について、様々な角度からアプローチし、また穴を掘ってみようということだ。それは、ひとつの彫刻をいろいろな角度から眺め直していくような感覚にも似た、見える景色が違うものを覚える過程でもある。しかし、確実に対象の本質へ近づくことができそうな気持ちになれるのは確実である。
 なんかいいことないかなぁ。そんな呟きを、かつての友はよく口にしていた。こちとら、とにかくカントを読まねばならないなど、することがいくらでもあって、ぼうっといいことないかなどと寝そべるような気持ちにはとてもなれなかった。というより、もしも「いいこと」があるのならば、それは自分から探しに行ったり、自分の求めるもののために動いていくことで手に入れるものであろうから、棚からぼた餅の落ちるのを待つような構え方は、私には到底できないだろうと思われた。それは今もそうである。このことは、自分で何でもできるとか、自分が何かを成し遂げるという意志の塊でいようというものとは少し違う。信仰に入ってからは、神の恵みということの絶大さには何もなすところがないほどである。しかし、自分でしていたいこと、しなければならないことは山ほどあって、退屈でいる暇がない。
 すると、私は本書の「暇と退屈」の論理が分からないのであろうか。決してそんなことはない。ハイデッガーがこのテーマで用いた、恐らく自身の体験に基づいたものであろうモチーフを、著者は最大限に活用して、しかもハイデッガーの結論には大いに疑問であるとし、さらにもう一段階別の重要な観点へと深まっていく。そこには、ひとつのパラドックスがあった。ハイデッガーは、退屈の分析を鋭く行ったが、その暇は人間の自由により現れたものだとし、その自由を本来の意味で発揮するために決断が必要だ、ということで終わったのだったが、今度は決断したことに束縛されやしないか、というのである。
 自由には眩暈を起こさせるものがある。人はむしろ、積極的に自ら奴隷になりたがっているのではないか。しかし、人にはそれぞれ自分にとっての「世界」をもつ。それは一人ひとり異なるであろう。著者は、トカゲやダニの「世界」を考察することにより、それぞれの存在者にとり、その取り巻く世界が異なることを指摘した。それは、その当人が、つまりは「私」が、自らそこで生きていくことによってしか体験できない「世界」であろう。しかし人は、その都度その「世界」を変えていくことができる。この点において、他の動物などに比較できないほどたくさんの「世界」を経験できるようになっている。退屈は、この辺りの事情に深い関係をもつものらしい、という辺りまで、著者は突入していくのである。但し、本書を要約したものを見て、なるほどね、と思うだけでは、このことは実は分からない仕掛けになっている。読みやすい本だけに、きっと読み通して戴きたいと思う。そうすれば、著者の言いたいことが、お分かりになれることだろう。
 ところで「あとがき」は、著者が高校生のときに、クリスチャンホームにホームステイしたときのエピソードが書かれている。祈りなどについてだが、よほど印象が強かったのだろう。本書は、この出来事に端を発していたのかもしれない。これは私の目に留まった、些細なことだが、かなり興味深く思われた。
 元々2011年に朝日社説出版社より発行されたものに、今回は増補論文が入っている。そこには「傷」というテーマが加わっている。より現代のニーズに応える視点が導入された観がある。そこには「記憶」が深く関わり、また「当事者」という、著者がその後出会った研究課題と大いに関係しているものと思われる。本書は本書で閉じられたものではない。ここをむしろスタートとして、開かれた思索の場へ拡がり、そして深められていく入口なのだろう。私たちは、自分に与えられた「暇と退屈」を、こうした大切な思索へ向けて浪費したいものである。




Takapan
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