本

『「ひかりあれ」プログラムからの信仰』

ホンとの本

『「ひかりあれ」プログラムからの信仰』
川上俊彦
カトリック「貧しい教会」
2006.12

 これを本として紹介してよいものかどうか、躊躇はあった。というのは、これは非売品だからである。読者の良心に応じて献金してほしい、ということが、最後に記されている。私はこれを、BookOffという古本店で購入した。
 副題に「依存症者からのメッセージ」とある。アルコール依存症の人々が、このカトリックの救済組織に集まってくる。その集会での証しがまとめられた本である。七月に開かれたこのセミナーのテーマは「神の霊が我々を変えた」というものである。
 自分のからだなのに、自分の意志のままにならない。それは、現代の身体論からしても当然のことであるかもしれないが、その苦しみの中でもがく人は、ほんとうに辛いものだと思う。しかしこの共同体は、とにかく断酒を実行する。しかし、断てばそれでよしというのが人間ではない。そのときに、自分のしてきたことや、これからどうすればよいかということについての、精神的な穴のようなものが、大きく自分を包み込んでくる。過去を見ても、未来を見ても、そこは闇でしかないのである。
 実に陰惨な体験をも、この証しのなかでは適切に告げられる。その中でいかに、光を見出していったか、がテーマである。信仰すればすべての苦しみから解放される、そんなに単純なものではない。日本のキリスト教が、一時盛んになったのは、エリート層の力によるとも言われ、西洋文化を取り入れた富裕層の宗教としてよいイメージができた、というのも否めない。他方、今は読まれないが、賀川豊彦のように、底辺の人々と共に生きることに尽力した人もいるし、アリの街のマリヤと呼ばれた北原怜子など、キリストのごとくに生きた先人もたしかにいる。足尾銅山の鉱毒事件にこの世の財を使い切った田中正造のような人もいた。今はどうだろうか。場合によってはマスコミ取材で美談となりそれだけで終わるというふうなことはないだろうか。今でも、たとえばホームレスの方々のために奔走するキリスト者はいる。ただ、賀川や北原あるいは田中のような立場とはまた違う角度であろう。
 元に戻ろう。この本には、そんなことが書かれてあるわけではない。ただ、依存症者たちの、偽らざる証しが切々と語られるだけである。読む側は、ときに気が重くなる。この人々の体験を想像して、苦しくなることがある。しかしまた、そこにたしかに光が射していることをも知る。それは、たんに信仰したとか、キリストに救われたとか、そんな言葉ではない。私は、真実の人間の希望の声だとしか今は表現できない。安穏とした場所から、神をたたえるとかハレルヤとか、喜んでいるばかりではなく、もう生きるか死ぬかという切実な場所から、最後の一筋の光に希望を抱く思い、しかも、この依存症からは一生逃れられないということを感じつつも、神に与えられた自分の命の意味を覚え、神がこの人生を終わらせるときに、完全にこの束縛から解かれるという希望をすら抱くような生き方が、ここにまざまざと見せつけられるのだ。
 キリストは、まさにこのような人々の友となったのだ。その病気でない私たちも、なんらかの意味で、同じくらいぼろぼろの自分をつねに意識しつつ、その友となったイエスに従うというのでなかったとしたら、キリストについて、とんでもない勘違いをしたまま、ただのファリサイ派として一生を送ることに、なりかねないのである。




Takapan
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