本

『我が子を被害者にも加害者にもしない』

ホンとの本

『我が子を被害者にも加害者にもしない』
藤井誠二
徳間書店
\1,500
2003.12

 権力に対してペンの刃を向ける、ノンフィクション・ライターの手による、少年犯罪に対する強い意見を述べた本。人々の関心は、事件当初の熱気が冷めると、もう特別話題にもしないくらいだが、関係者にはそれもまた辛い気持ちかもしれない。事件のときにはマスコミを初め生活のすべてを覗かれ過干渉を受け続ける、被害者の家族。しかし本当に世間の関心や賛成の声がほしいころには、今度は誰も関心をもってくれず、社会的制度の改正などへの署名や声にも、人は参加してくれなくなる。
 さらに被害者の家族を口惜しくさせるのが、事件の全容が明らかにならない点。教育的配慮のような考えで、加害者のプライバシーは徹底的に守られる。被害者は名前はもちろんその生活が取材の土足で踏み入れられ続けていたのに、加害者の犯罪に至った過程などについても、発表はされない。最近でこそ、ごく稀に例外的に、加害者少年の生活の一部が情報として流れてくるようになったが、それで何が分かるのかと問われれば、やはり分からないとしか答えようがない。この著者のように、その道の事件を取材してルポを書こう、世間に忠告していこう、と意気込み、またあらゆる資料にあたろうとしても、ほとんど何も情報らしいものが手に入るわけではないのだという。
 殺されて得も損もないだろうが、「殺され損」という言葉が意味しているように、少年により殺害されたとなると、その家族の死には何の意味も事実も分からず、ただ惨い殺され方をしたという結論だけですべてが終わってしまう。それが現状だという。
 加害者の人権は何も守られなかったし、死んだ以後も守られない。だが、加害者の人権は厚く保護される。そこに問題はないか、というのが、このライターの強い意見である。
 自然、弁護士側から猛烈な抗議が押し寄せてくる。それでも著者はめげない。そんなに強く反論してよいのかというくらい、本の中で抗議への反論を展開する。何もそんなにケンカしなくても、という気にならなくもないが、考えてみたら、この著者への圧力は、個人的なというよりは、かなり団体的なもの、あるいは弁護士という資格もそこに含めて考えるが、ある権力をもつ側からの圧力である。それらに対して、著者は個人として立ち向かっているに過ぎない。何かの団体や、資格やロイヤリティを通して、意見を向けているのではない。その理由で、私は、この著者が発言することに対して支持をしたい。発言している内容がすべて正当であるのかどうか、という意味ではない。弱い個人の立場から必死で発言する者に対しての共感である。私もまた、そのような意味での発言者であるからだ。
 少年犯罪については、たしかに情報が外へは漏れてこない。そのことに対して、傍観者に過ぎない我々は、状況説明のない推理小説を読んでいるだけのような感覚でいることさえ可能である。苛々はするけれども、それによって自分は痛くも痒くもないという意味である。だが、自分の子が、被害者になる可能性がないわけではないし、あるいは加害者にならないとも限らない現実がある。そのことに気づくことができるだけでも、この本は私たちに何かを気づかせてくれる。
 正義面をしている人間が、正義とは限らないことを、はっきりと教えてくれる。それは、北朝鮮拉致問題に対する、ある種の妙な熱意(揶揄しているつもりはありません。激しく肩入れしつつ、実は政治的に自分を善良に見せようという考えがあるかもしれない、という意味の言葉です)の中にも、感じることができよう。もしそうなると、拉致の被害者もまた、うまく利用されていることがあるというわけだ。
 たしかに、田中正造がつねにたくさんいるわけではないにしても、寂しい。




Takapan
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