本

『秘伝』

ホンとの本

『秘伝』
村松恒平
メタ・ブレーン
\1890
2005.4

 およそ「秘伝」というタイトルが混じった本で、ろくな本に出会ったことがない。公開してしまえば秘伝でもなくなるし、期待して開けば当たり障りのないことが綴られているばかり。そんな失望感のゆえに、学習してしまったのだ。
 だから、この本にも大して期待しないでいた。「プロ編集者による文章上達秘伝スクール(壱)」などという触れ込みにも、さして期待はかけずに。ところが、これが驚いた。気の利いたことがどの頁にも書いてあるではないか。
 出会うタイミング、というのも人生である。なんとはなしに、今だからこそ、心にグッと迫ったというふうに感じる。
 およそ「書く」という行為について、この著者は、それを言語化することに長けている。つまり、そもそも書くというのは事象や心理を言語化する作業であるとも言えるが、著者は、とくにその「書く」ことそのものについて、言語化してしまうのである。恰も、純粋理性批判の根本的態度のようにさえ見える。
 メルマガにおいて、様々な質問を吸い寄せ、それに大して言語化した回答を与え続ける。その対話がまた著者の思索を明確にさせていき、ついには大部となって、出版に相応しい形態となる。
 私は、ハマった。というより、私の中で実行してきたことや、なんとく思うのだけれどはっきり示せないなあと思ったようなことが、はっきり言葉にして表されているので、もどかしさの解消という具合に思えたのである。
 これは、書くという行為に日々を費やしている(あるいはそうしたいと思う)者でなければ、分からない部分がある。
 この本のどこを切り取ってもためになるが、せっかくの書評である、印象的な部分を2カ所挙げよう。まず、403頁前後の、プロレスのレフェリーのたとえ。客観的というのはどういうことかを説明するときに著者が用いた。レフェリーが、当初は悪役の反則を見抜けなかったりカウントをゆっくり数えたりするのに、後半ヒーローの反撃で盛り上がってくると、カウントが素早く数えられて終わりになる。あれは、公正ではないが興行的に貢献しています。新聞の客観性がそれと比較されるあたり、どこか痛快であった。
 また、123頁あたりは、驚きを隠せなかった。キリスト教のトラクトの文章に対する助言をした質問者に対して、なんともすばらしい理解を示し、アドバイスを施しているのである。教会関係者は、ぜひ読むべきである。初めに言があった、と説教する割には、教会の文書や報告は、世間に言葉として伝えるのに無器用ではないか。あるいは、冒険を避けている面も、はっきり指摘されている。回答の終いに「神さまの祝福をお祈りいたします」などと言われると、もうどちらが神の僕なのか、分からなくなる。
 キリスト教は、アメリカでは思い切ったこういうコマーシャリズムを利用してきている。行き過ぎの面があるかもしれないが、日本のキリスト教界も、少しくらいは真似してもいい。私自身、著者のような考えで、これまで歩んできていたゆえに、共感したのかもしれないが、たしかにパワーを秘めた重要なアドバイスであると思えてならない。




Takapan
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