本

『ひび割れた日常』

ホンとの本

『ひび割れた日常』
奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗
亜紀書房
\1600+
2020.12.

 人類学・文学・美学から考える。そう小さくサブタイトルが書いてある。著者たち3人の専門分野である。禍の街の外へと通じる道を探す旅へ。この目標をもって、3人がリレー式に電子媒体で一定の考えを述べ、それを受けてまた次の人が、という具合に話が続く様子を、本書はひたすら追うばかりである。私的な気配はカットされ、ひたすらこのコロナ禍の中でのことについて綴る。しかし、それはコロナウイルスについての知識や感染拡大のレポートをする、あるいは対策を講じるというようなものではない。このウイルスを人類はどう受け止めるとよいのか。人間はこれからどこへ向かって歩んでいくのか、というようなことを考える。また、それぞれの分野から得た視座により、これまで研究してきたことの何がどのように活かせるだろうかということを自問しながら過ごす毎日の中で、見出した視点や景色が示される。また、これら仲間の出した問いに対して自分なりに答えようと考えた結果の声を出す。そしてまた次の人がそれに反応したり、まとめたりといったことを思い出す繰り返す。
 よい関係だし、よい実りがもたらされる意見の交換であると思う。いや、交換ではない。互いの対立や意見の相違を際立たせるような営みではなく、鼎談のように、何かしら展開が期待される動きであるし、それぞれの分野が重なりつつ新たな景色が見えてくるスパイラル的な上昇がそこに求められていたのではないかと思う。そして、それは成功しているのではないか、と私は感じた。
 それは、一定の意図によりまとめていこうとする形からできていくものではない。思いもよらぬひらめきや反応があり、次々と風景が変わっていく。従って、ここに彼らの考えの変遷をまとめたようにご紹介することができない。しかし、たまらない魅力を覚えるというのは保証してよい。
 私は最近読んだ小さな原稿から、『手の倫理』という本を楽しく味わわせてもらった、伊藤亜紗さんの考えしか馴染みがなかった。そのせいか、本書でも伊藤さんの意見が、どういうものを背景に発言しているかが分かるために、非常に印象に残った。障害をもつ方々と触れあい、そこから考察していくことの多いこの人は、そこに「いる」ことの重要さを強調するが、その中で「変身」が失われてはならないと強く言う。変身とは、「自分と異なるものの世界の見え方をありありと実感することである」と言うのだ。私たちは、あまりに固定的に、自分や相手を定めてしまいがちではないか。そして自己の正義を疑わず、相手を一定のラベルの中の貧相な奴として見下し、また既定のものとし、全くの他人として世界に捨て置いてしまう。自分でないものになる、そんな謎めいた言葉でさえ、スタンスさえ変われば当然のことにもなりうるはずなのである。
 また、こんな言葉も発している。「いのちは自然の営みであり、それと併走することはできても、所有することはできない。生まれるとは、いのちの流れにノることであり、死ぬとはいのちに追い越されることなのではないか。」脈絡がないとこれを思い至った過程が分からないことになるが、何かうまく言えないけれども、と断ったうえで、こんなことを言っている。伊藤さんの思った世界と同じものではないかもしれないが、私の心は大いに刺激された。「永遠のいのち」を求める宗教者にとり、何かひとつ揺り動かされる言葉になりうるような気がしてならなかったのである。
 そしてやはりこの伊藤さんだが、この春先、新型コロナウイルスの情報がいろいろ届けられる中で、「どんな言葉にも体重をかけないように過ごしていた」と言っている。すごくよく分かる。一定の情報に掻き乱されたくない。どれが真実かよく分からないままに報道やSNSの声が飛び交っている。どんな権威の持ち主が言ったからといって、それが真実であるという保証はどこにもないのだ。どれかにどっしりと腰を落ち着けるようなわけにはいかないと判断する自分がそこにいた。それが「体重をかけないように」という配慮であったのだった。そして、「言葉の賞味期限がどんどん短くなる」と続けて言い、「これが「日常がひび割れる」ということかと思った」と記している。おそらくこの箇所の秀逸さの故に、この言葉を本書のタイトルに選んだのだと思う。この便で3人の意見交換は終わったことになって、本はその後にブックガイドのコーナーに入る。つまり伊藤さんのこの便が、本書のまとめとなっていたのだ。だから、その最後がこのように締められていることは、実に象徴的というか、決定的である。「今はむしろ、しゃべるよりも聞いていない。積極的に黙っていたい、そんな失語のモードだ。」と発したことに続いて言う。「リレーエッセイが与えてくれた最大のものは、「聞く」だった。足場が安定したことで、私は「自分でない存在を聞く」という能力を回復することができた。」
 聖書に聞く、キリスト者の姿勢も全くそのようでありたいと思う。否、そのようでなければ祈りではない、ということが厳しく迫ってくるような気が、しないだろうか。




Takapan
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