本

『『変身』

ホンとの本

『変身』
カフカ
高橋義孝訳
新潮文庫
\324+
2011.4.

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。
 この冒頭の文はよく知られている。何の前触れもなく、いきなりここから物語がスタートするのだが、なんで、と疑問を抱くより先に、話はどんどん進展する。もう後戻りはできない。とにかくこの事態をどう乗り越えていくのか、家族との切迫したやりとりの中で、このグレーゴルの動作が滑稽でたまらない。]
 外交販売員たるグレーゴルは、早朝仕事に出なければならなかったが、それがままならぬ。心配して起こしにかかる家族は、一家の収入をグレーゴルに託しているだけに必死だ。しかし虫としての体に慣れないグレーゴルはその動きに要領を得ないのである。実にもたもたとした動きが、執拗に描写される。だんだん読むほうも、くどいと思うようになるほどに、段落分けをする暇も惜しむかのように、虫としてのその動きを追っていく。
 有名な本ではあるが、例によってストーリーやラストをネタバレに出すことは控えるべきだと弁えている。両親と妹がいるが、それぞれの個性がよく描き分けられ、臨場感溢れる描写に、読者は次第に本当にそんなことがあったものと受け容れて、この後どうなるのか、とわくわくして読むことだろう。しつこい描き方はその行動もだが、心理描写もそうであって、なにもそこまでというくらい、動く場面が少ない割には文章がやたらと長い。恰も、やがてどう動いていくのかを勿体ぶって、吉本新喜劇がギャグの場を長引かせるかのように、虫としてのグレーゴルに寄り添いながら、著者は、どこか哀愁を漂わせつつも、コミカルに情景と心理を伝えていく。
 そしてラストはまさかそうなるのか、という、これまた心理劇としても唸らせるものとなっているが、もちろんここでは説明しないので悪しからず。
 さて、この虫とは何か。最初のところで分かるが、これは昆虫ではない。足がたくさんあるのだ。解説によると、ムカデのようなものだろうか、とも言われているが、判然としない。この本が出版されるとき、画を入れるとして、どんな虫に描きましょうかと打診されたとき、カフカは断固として、虫を描いてはならない、と言い張ったそうである。それは分かる。これを、こんな虫だったんだ、と画にしてしまったら、台なしなのである。足がたくさんあることや、ねばねばした茶色の液体だとか薄気味悪い表現はあるものの、その姿形については読者に明確に伝えられていない。ということは、どのような思い描こうと構わないということでもあるらしい。ただ、それを一枚の画にしてしまうと、話が全く駄目になってしまうということになるし、だからこそ、これを映画やアニメにすることはできない、文学の極みであるとも言えるだろう。
 では、虫は何を意味しているのか。そんなことも、決めることはできない。読者の数だけ、無限にあるだろうし、だからこその文学であるとも言える。作者の手を離れたら作品は独立した存在だ、などという間もなく、作者も何か思い描いているかもしれないけれども、それを当てるような悠長な気分を読者に与えないところが流石である。つまり、これは誰の心の中にもあるもの、いや誰の姿をも表しているものであるのではないか、という気さえ起こってくるのである。
 私の中の虫、否、私が虫そのものではないのか。実は人間の姿はこうではないのか。あるいは、ある日突然、このような姿になって、排除されてしまうことになるのではないのか。この作品は、第一次世界対戦の直前に執筆され、大戦勃発語に出版されている。この時代状況によって、想像することはできる。が、読者は恐らく、もっと普遍的に、つまりいまのこの時代においても、感じとるとが許されるであろう。この変身の虫については、カフカも随所で言及しているらしいが、そこですべてが明らかにされているわけではない。しかしなお、何か作者自身の思うところの片鱗を見せていることも確かである。だとしても、それが本作品の鑑賞を制約する必要もないはずだ。ただ、他の作品との関連を示唆しているところもあり、思惑そのものは何かがあるのだろうと思われる。それでも、ある日突然自分を取り巻く周囲の視線が変わり、自分がこの世界の中で異端的なものに転じてしまうということはありうることであるし、それこそが自分がこの世界に置かれた真実であると気づくことがあるかもしれない。こんな悪夢が、と思うこともあるだろうし、それから逃れることもできないことがあろう。
 自分は虫だ。ディアスポラのユダヤ人としての生活の中に置かれたカフカが、虫けらのヤコブという表現を知らないはずはない。これが動機だとか意味だとかいうつもりはないが、精神の根底に、イザヤ書41:14が響いていたことは想像してよいような気がする。詩編22篇にも、自分は虫けらだと呼ぶところがあり、これはイエスの磔刑のときに口にした詩編でもあるのだが、ここにも何かひとつの入口があるのかもしれない、という気がしないでもない。そこがまた、この虫という問題を普遍的に扱うきっかけになるかもしれない、とも思う。
 同時に、この個性溢れる家族一人ひとりのあり方の中に、自分自身を見出すこともできようかと思う。一番派手な動きをする母親もそうだが、妹がまた、最も世間の人間に近いのかもしれない。いや、これ以上は控えよう。
 いきなり変身した自分というところからスタートする物語は、一気に最後まで流れていく。文庫で100頁ほどの作品であるから、時間を見つけて一度に辿ってみたらよいだろうと思う。まるで一本の映画を見るかのようにして、不思議な感覚に包まれることであろう。いや、殆どの皆さまには、何を今更言っているか、というくらい、ご存じで体験済みのことなのであろう。余計なことを口にしてきたかもしれない。




Takapan
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