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『平和は「退屈」ですか』
下嶋哲朗
岩波書店
\1575
2006.6
サブタイトルは、「元ひめゆり学徒と若者たちの五〇〇日」とある。
戦争体験のない者が、戦争体験のない者に、戦争のことを語る。その試みが、若者たちの間で繰り広げられた。ひめゆりの元学徒たちとの交わりの中で、それを掴んでいくのである。その、ルポでもあると同時に、戦争や平和への、実践的な実に鋭い問いかけをぶつけていく、すばらしい記録であった。
戦争はいけません。人を殺してはいけません。平和を守りましょう。――こうした美しい意見が、どんなに脆いことか。反論者はそこにつけいるだろう。では家族が襲われたときに、敵を殺すことはしないのか。それでも闘わないのか。
そう反駁して、彼らは靖国がなぜいけないのか、と示してくる。ところがこの本は、靖国を拝む心理を、的確に暴いている。そうでもしなければ安心できない遺族心理などに触れつつ、実は当の遺族や関係者には、分かっているのだ、というふうなふうに告げる。どこか、靖国に対して真実の信仰をもっているわけではないが、そうでもしないと自分の精神がつぶされそうになるではないか。幾分の欺瞞を抱きつつ、靖国を尊んでいる。
しかしながら、この姿を見る若者は、むしろ純粋に靖国を参拝しているのだという。若い世代の関心が高まっているというのだ。
かの大戦中も、大人たちは、やがて日本が負けることを感じて行動していた一方、子どもたちは純粋に神国日本のため、天皇の子として大本営発表をすべてそのまま信じていたという。だからこそ、学徒として志願したりするのである。
現代の中に、その意味で危ういものを、著者ははっきりと見通している。
この本で、沖縄にて戦争を心に響かせようと努力する「虹の会」の若者たちが描かれている。かつて女子高生が、沖縄の証言が「心に響かない」と叫んだことが、きっかけであった。
ひめゆり平和祈念資料館の語り部たちは、高齢となった。そこから、まだ語れない部分もある。それを、この若者たちの問いかけで、明らかにしていく課程もあった。胸を打たれた。
タイトルは、青山学院大学附属高校が2005年に出題した、英語の入試問題に由来する。この英語教師の作成した文章は、ひめゆり元学徒たちの話が退屈だったという文章で、しかも、選択する正答が、彼らの話ぶりの責任であるとしている点で、世間を賑わせたものである。
だが現に、修学旅行などで訪れる高校生ばかりか、その教師も、実にひどい例が報告されている。何が教育されているのか、現場はうすら恐ろしい。
通り一遍の、あるいは感情的な、平和論や戦争論とは異なるものが、ここにある。汗だくで掴みかかろうとした格闘の足跡がある。第一、直接の体験者が戦争を伝えるということがもう限られた時間しか残されていない現状において、戦争を体験していない者がどう継承していくかというのは、明らかに緊急の問題ではないか。どうしてこの問題をもっと堂々と捉え、挑んでこなかったものだろうか、と悔しく思う。
沖縄戦で壊滅した民間人は、たしかに被害者としての様相を強くする。しかし、同時に近隣諸国に対しては、加害者でもあったという見方ができる。それは、亡くなった方々を愚弄することにはならない。死者を悼むことで、私たちは、自らが試されていることを知る。知らなければ嘘である。私たちは、自分の中の罪性に気づかされる。あるいは、罪性に向き合わされる。いやでも。このとき、私たちは、心の中に「痛み」を覚える。傷つけられたその心の「傷み」は、何によって癒されるのであろうか。いや、まずは、この「いたみ」を、ごまかすことなく胸に抱えてこの場に立つことが肝要である。