本

『閉塞感からの脱却』

ホンとの本

『閉塞感からの脱却』
山口勝政
ヨベル
\1890
2012.9.

 入手しにくい本ではないかと思う。私も紀伊國屋書店のウェブサイトで、取り寄せの形で送ってもらった。それで少し時間がかかった。
 サブタイトルには「日本宣教神学」とある。キリスト教の本である。その宣教あるいは伝道と呼んだほうが分かりやすい面があるかもしれないが、その現状と今後のための問題が扱われる。そのように感じていたが、この本は実践的なものを説くのではなく、実にやはり神学なのであった。
 それでいて、その動機のようなものは、まさに実践の中に含まれていた。筆者が牧会していたのは、いわば田舎の地方。そこでの教会は都市部の教会とはえらく違うのであった。様々な悪条件が重なり、福音伝道は困難を窮めた。しかし、都市部の教会はそんな田舎の教会には目もくれない。団体でさえ、この田舎の窮状を理解しようとしなかったのである。
 このことが、筆者に神学を与えた。
 もちろん、たんなるぼやきでもなければ、鬱憤でもない。宣教という課題においていったい聖書はどのように言っているか、聖書から聞こうとしたのである。だから、この神学は、「日本宣教神学」と名づけられた。インターナショナルに通用するものではない。この日本という現場において、宣教はどうなっているか、どうあるべきなのか。それを聖書から見出そうとするのである。
 そのための前提のようになるものとして、別に、パウロの説教が分析される。いわゆるアレオパゴス説教である。ギリシアのポリスにおけるパウロの説教は、一般に、失敗したものとされる。哲学めいた議論の好きな地盤であるから、パウロの話にも最初は耳を傾けていた市民も、復活のことをパウロが口にしたとたん、くだらないとの結論で去っていったというのである。しかし、著者はそこに、宣教における一定の評価をする。これをただの失敗と片づけてはならないのだ、という。大成果をもたらさなかったから失敗だ、という片づけ方ではいけない、と。実際使徒言行録には、このとき救われた者もいたと記されている。日本における宣教は、このようなあり方でも良い方ではないか。これを求めてよいのではないか。
 著者は、聖書の無謬生に関心を向ける。福音主義などと標榜しながら、無謬生には様々な条件をつけるところが増えているが、それが福音の力を弱体化させている、と言うのである。そういう著者自身の立場がもう一つ見えてこないが、やはり地方伝道におけるあり方がスタンスであるようにも見える。そのために、近年の宣教に対する世界的な考え方のひとつひとつを訪ね、その考え方に耳を傾け、そしてそれぞれに課題をも見出そうとしている。教会成長論、コンテキスチュアリゼーション、そして解放の神学、宗教多元主義。どれも世界のキリスト教神学の思想的な状況として花咲いたものである。しかし、そのどれかが普遍的に満足できるというものでもない。それを論ずるというよりも、箇条書きにメモを重ねるというふうに、この本は記録している。辞典の文章なのだ。
 それぞれの原稿が、各種の論集に掲載された論文であったり、筆者が書いた、辞典の項目としての原稿であったりするため、読み物としてまとまりのあるものではないと言える。それで、とらえどころのないような面も持ち合わせており、また、各方面への厳しい批判の矢が続くため、やや穏やかでない印象を与える。しかし、私はいつも言うが、そのように口出す役割はやはり必要なのである。誰もが穏やかに「いいですね」と言い合うだけであってはならないのだ。互いに傷を許し合うようなあり方は個人として、また団体のつきあいの中で不可欠ではあると思う。しかし、いざキリスト教界という船の航海において、危険を察知し厳しくその安全と舵取りに関わるために、冷徹な眼差しをもち対処する役割の者が、どこかにいなければならない。それを唯一の真理として君臨するのではなく、誰もが見落としがちな点に気づかせてくれるという存在として、一定の光を放つものでなければならないと私は考える。
 閉塞感からの脱却のために、政治界ではスーパースターがしばしば待望される。それは時に、というかしばしば、危険な足跡を伴うものである。宣教は、閉塞感を打破し、平和をもたらすものとして神の支配を実現する方向へと歩んで行くのでなければならない。読者ならびにこの本に刺激を受けるグループが、この本のタイトルについて、必ずや熟考し、祈り問い直す必要があるということについては、私は妥協しない者である。




Takapan
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