『心の病とその救い』
富坂キリスト教センター編
新教出版社
\1800+
1991.9.
古書店で見つけたものだが、精神医療に関心をもっていた時だったので、目に留まり買うことにした。というのは、精神医療そのものについてはいくらか学べたものの、キリスト教会でそれがどうなのか、というニーズに応える本が稀だと思えたからだ。
そもそも教会は、心を病んだ人が惹きつけられる場所である。精神的にケアや対応が必要な人がやってくる。しかし、牧会心理学などは神学校で教えても、精神医療の知識は付け焼き刃程度のものに過ぎない。もちろん医学を学ぶというのはまた別のことなのだが、教会という、心の問題を抱えた人が集まるところで、しかもある意味でその心の治療をしようとする場所にあって、精神医療の問題を学ぼうとする気概すら感じられないのはどういうことなのだろうと訝しく思うものである。しかし、心の病を知ることが、宗教的救いの入口であるという考え方もある。これをどう扱うか、教会にとっては大問題だと私は思うのだが。
本書は、幾人かのエキスパートがそれぞれに数十頁単位でまとまった見解を語り、具体的な治療やケア生活についてなどを教えてくれるものである。
そのタイトルを列記してみる。
心の病とその治療
精神分裂病患者の在宅ケアについて
分裂病者と対話する時の要点
魂への配慮といやしの歴史的展望
精神の危機と牧会
信徒と牧師の対話
心やさしき人々の故郷
どうだろうか。初めは概ね精神医療の視点からの解説にベースを置いているように見えるものの、次第に教会特有の問題として考察と事例の紹介が関わってきて、最後は牧師と当事者である信徒との対話という形を演じつつ、教会における悩み相談や問題点を次々と説明していくようになっている。
なかなかよくできた本である。教会関係者は心得として触れておくべき価値が、いまなお十分にあると思う。
しかし、注意しなければならないことはもちろんある。こうした知識をかじったことで、自分が精神医療についてなにがしかを心得たつもりになったり、治療を施せるかのような錯覚に陥ったりすることは避けなければならない。いくらか視野を広くしてもらった、あるいはこれまで知らなかった視点を体験されてもらった、と考えるくらいが適切であろう。
また、精神医療もその後大きく変貌している。いまや「分裂病」という呼称は使われることがなく、たとえば「統合失調症」という言い方になっている。さらに、医学上の進展もあるため、現在では対処法が異なることもあろうかと思う。また、本書の発行後に、阪神淡路大震災が起こり、精神医療における大きな変化が生じている。PTSDの問題の大きさやトラウマなど、災害心理学の発展が著しい。大きな地震や災害はその後も続いており、本書の記述が十分適切であるかどうかというと、怪しいものだと理解すべきであろうと思う。
とりあえず、教会に集まる、精神に問題を抱える人に向き合ったときのひとつの姿勢を学ぶとよいだろう。聖書的理由や説明を施したところ、あるいは実際に来た人の事例などは、すぐにでも検討課題となるはずである。そして、本書をひとつのステップとして、他の専門書に触れるにしても、心得ておくべき基礎知識を学んだというふうに考えて、新しい精神医療やその現場について、また知っていくようにするとよいのではないかと思われる。
本書も、ささやかに聞こえるが恐らく強いひとつの主張であると思われるが、私のモットーのようなものを最後に語っていた。いったい、心を病んでいるのは誰だろうか、ということである。いまは引きこもりなどでもよく話題になるが、当事者はたいへん優しく、また世間の汚さに身を任せることができず、なあなあでいい加減にやっていく自分が許せずに、それを社会不適応と診断され、心の病気の持ち主だとされるのが当たり前のようになっている。しかし、彼らはむしろ神の目に「正しい」という見方もできるはずである。否、むしろキリストはまさにそれを見出してそこに癒しと救いをもたらしたのではなかっただろうか。いったい、心を病んでいるのは誰なのであろうか。これは私も強く問いたいことなのである。私の、叫びなのである。