本

『心の国境』

ホンとの本

『心の国境』
デボラ・オメル/ヨナ・マフ挿絵
母袋夏生訳
日本図書センター
\2200+
2005.6.

 振り仮名があり、おそらく小学中学年以上であれば困らないだろうと思う。作者の名前はいかにも聖書的である。イスラエル地域に生まれ、思春期にイスラエルの建国を見ている。キブツと呼ばれる集団農場で生まれ育った。イスラエルで人気のある作家だという。これはこども向けであると言えようが、もちろん大人が読んでもじんとくる。
 ムードのある絵は、写真のコラージュを含め、単色でこの物語の張りつめた空気や哀しさをよく表現しているように思われる。ドイツ生まれのユダヤ人で、著者と同じキブツで暮らしていたという。画家であるが、本の挿絵は本書のみだという。
 そしてヘブライ文学翻訳に年々しているという、ありがたい訳者がいる。こうして、通常私たちが触れないような世界の物語が届けられた。
 久しぶりに故郷のキブツを訪れた、わたし。まずキブツの説明から入る。アラブ人とイスラエル人との間で戦争が行われている。安息日に懐かしい丘に行ってみようと思った。だが監視の兵士が同行しなければならなくなった。その兵士が、近くに住んでいたアラブ人たちが逃げたという話をした。その長はアブダッラーだと兵士が口にしたとき、わたしの中に、若いころのことが浮かび上がってきた。わたしは、そのアブダッラーと出会っていた。わたしは、七歳のあのときのことを思いだし、語り始める。
 話をここで全部明らかにしてしまうわけにはゆかない。ただ、そのころはアラブ人とイスラエル人とは、一定の交わりがあった。アブダッラー少年は長の家に生まれた男の子で、その姉の結婚式にわたしたち近くのイスラエル人も呼ばれた。通訳がいないとコミュニケーションもできないが、この「言葉」という問題は、後々考えさせられる問題につながっている。
 アブダッラーと恋愛関係に陥るのではない。それだと安っぽい戯れ劇だ。ただ、心の中で彼をしっかりと捉えている。その思いが残っている。思春期になったわたしは、同じキブツにいた同い年の子との関係に喜び、しかしなお戦争という時代の中で、それでよいのかと自問自答さえする。
 イスラエルは正式に名前のあるだけでも幾度も戦争をしている。パレスチナ問題は、陰に日向に現れてくるものの、要するに常時戦闘状態であったとも言える。いまもなおそうである。
 物語としては、期待するような方向には少しも走らず、まとまりのつかないような流れの中でふらふらと揺れ、解決もなく希望も感じられず、落ち着くことなく途切れる。そんな物語であってよいのか。たんに作者は自ら経験した思い出話をなんとなく綴ったのか。
 いや、この未解決でどこへ向かうか不安でしかない終わり方こそが、現実のイスラエルの姿なのだ。これが真実なのである。安易な解決でファンタジーを描こうとしたのではない。特別な大事件があってヒーローが活躍するような物語を書こうとしたのではない。お決まりの結末が現れて安心することを目指したのでもない。
 ただ、これが現実なのだ。これを読者は知らなくてはならないのだ。当事者でないと分からない何かを、この物語は伝えようとしている。歴史の本からではないし、宗教の教えからでもない。何を食べ何を着ていたかという辺りから情景を描かせることで、具体的な生きた人間がそこにいたのだということを知らせる。子どもの目から見ていたものは何だったか。それは特質あるものを鮮明に浮き出させて描いていたはずである。
 絶望や不安でこの物語を終わらせるのか、それとも平和への願いや祈りが読者から起こるようにして、心をつないでいくほうがよいのか。もちろん後者であろう。この物語の続きをつくるのは、読者であり、私たちである。どうして敵対しなければならないのか、私たちへ問いが突きつけられている。その故に、よけいに心に残ることになる物語であった。




Takapan
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