本

『心の哲学史』

ホンとの本

『心の哲学史』
村田純一・渡辺恒夫編
講談社
\3200+
2024.11.

 発売を知ってから、ずっと気になっていた。だがなにぶん価格が高い。ずっと遠目に見ながら、読みたいという思いを懐いていたが、Amazonのポイントが貯まって、だいぶ値引いて入手できることになり、動いた。注文したのが、年が明けて1月のことだった。
 心理学には、関心があった。思い返せば、高校生のときに、フロイトなんぞを読んでいる。それを全面的に信じるつもりにはなれなかったが、では心理学とは何か、ということで、教養的にではあるが、知見を広げていった。河合隼雄さんの本に出会ったのも、影響があったかもしれないが、実はそこに、私の哲学的な意識とつながるものがあったのだ。哲学の重要なテーマの中に、自分とは何か、意識とは何か、というようなレベルの問題がある。哲学科を受験しようとしたときにも、心理学科というものに、ちらりと目が向いたことさえあったくらいだ。
 実は、本書の「あとがき」で、編者のひとりが、哲学専攻から始めたが肌が合わず、心理学に移った、と記していた。私とは逆の道を進んだようなもので、見て微笑んだ。この人も、問題意識としては、私のそれに近かったのだ。
 なお、この「あとがき」の人は、ここから先に読むな、と警告している。正確には、「まえがき」「目次」から読み始めよ、と書いてある。どうかそれを守ってお読み戴きたい。私も、素直に前からひたすら読んでいったので、この禁忌に関わらずによかった。
 執筆者は全9人。二人の編者は名誉教授クラスだが、他のメンバーも教授であり、力の入った本となっている。内容についても信頼がおけるだろう。
 但し、タイトルに違和感を覚える人もいたことだろう。普通は「心理学史」といきたいところだ。事実上、ここには心理学と呼んでよいものが描かれている。だが、やはり本書は哲学史である。それでいて、哲学思想に偏らず、「心」についての言及と、その目指す解明のための知恵が、歴史の中で振り返られている。もちろん、歴史を淡々と語るのでもなく、問題点を深く追究しようとする動きと、問題点を巡る思想の攻防など、なかなかスリリングに記されている。
 おおまかにだけ、流れをお見せすることは差し支えあるまい。時は19世紀、そこに「心の哲学史」の始まりを掲げるところから始まる。ヴント、ブレンターノ、そしてフッサールの流れである。
 ところどころ「コラム」がある。エーレンフェルスからゲシュタルト心理学、またレヴィンに触れるコラムが最初に出てくるが、その後、心の理論パラダイムや、現象学的精神医学というように、その章で扱った点を補うようなことが述べられる。本論にはもっていかない側面でもあるのだろう。
 扱われるのは、そこから、内観主義、行動主義や機能主義、認知科学と進むが、この後も含めて、現象学的観点は、実のところあちこちで顔を出す。私は、メルロ・ポンティを思い起こす。近年では、心理学と呼ぶよりは哲学と称するべきたなのだろうが、鷲田清一の扱い方がよく知られているかもしれない。医療の現場でも、現象学の考え方、特に看護現場で用いられることがある。現代では、実際の応用においても、外せない観点であるのだろう。
 細かく辿ることは難しいが、続いて、認知システムに深まってゆく。サルトルの「見られる」という捉え方と、「他者」という存在に注視することで、心を考えるフィールドがまた広まり、また深まってゆくのだ。こういうことを、病的な角度で追究すると、中井久夫のような精神医学へと進むのだろう。「視線」が恐怖であるような場合も出てくるはずだ。ここでは、ジョイント・アテンションや、発達理論としてのアフォーダンスにも言及される。
 現象学という分野に絞った形での長い章もあり、ここは編者の一人が担当している。かなり立ち入った議論も展開し、たっぶりと量も宛がわれている。私たちも気にしなくては成らないのだが、心理学が自然科学の一つとなってしまうのかどうか、これは現代の課題である。脳科学にしても、物質的な化学に還元されようとする傾向が、現代においては強い力をもっている。心理学も、同様なのだ。現象学としての心の扱いは、物質への還元とは別の道を備えることだろう。さて、これから心の科学はどのような態度をとるのだろう。私たちは、どう付き合ってゆけばよいのだろうか。
 その脳と身体との関係も、心を問うにあたり、重要な要素になる。デカルトの心身問題は、現代では一定の解釈で評価されているが、依然として身体というテーマは、心について考察するときに大きな存在となっている。
 私は個人的に非情に興味深かったのだが、道具を使うとき、私たちはその道具も、自分の身体の一部のように意識できることがある。また、たとえば手の先を失った人が、恰もそこに手があるかのように思えて仕方がない、という「幻肢」という現象がよく知られている。ゴムの手を見つめているとき、それが自分の手のように思えてくる、というような実験が紹介されていたのは不思議だった。また、自分の身体が自分ではないようにしか感じられない、という「離人感」は、精神疾患の中で検討されはするが、それは自分の身体というものをどう意識しているか、という問題に関わるものであろう。
 最後は、アニマシー心理学が詳しく論じられていた。ゾウリムシには心があるか、植物には心があるか、という問いである。普通そういう考えを口にすると、何を言っているのだ、と嗤いたくなるかもしれない。だが、ビニルハウスにモーツァルト流して収穫を上げるなど、実践されていることがあるのをどう説明するのだろうか。また、ここにはそれを裏付ける実験も紹介されている。ここにもまた、物質的な動きに還元されて、そこに心があると言わざると得ないのだ、というような考えがあり得ることが示されている。
 こうなると、その「心」というものを、どのように定義するかによって、言えることが違ってくるのではないか、と考えたくなる。あるいはまた、逆に言えることによって、「心」を定義してゆく、ということになるかもしれない。
 そう、これは一つのアニミズムなのだ。アニミズムを肯定しろ、ということではない。論者は言う。「人間は、これまでとは異なる存在論のもとで、これまでとは異なる生き方を模索するよう導かれるのかもしれない」と。近代科学のテーゼが、真理のすべてではない。むしろ近代科学のベタな世界観や、主観客観の対象性的認識が自然を破壊してきた現実が、そのまま継続されてよいのかどうか、問うて然るべきなのである。もちろん古代のアニミズムに回帰せよ、というわけではない。私たちは、新たな見方、新たなパラダイムを必要としている、と考えることは、決して悪いことではない。
 ただ、私個人からすれば、キリストに出会い自分が死に神に生かされるという経験は、まさに「これまでとは異なる生き方」が与えられるということである。案外、この観点は、根本的な変革そのものではないか、とも思う。
 最後の索引まで含めて650頁、充実した本だと言える。通例の心理学ではなく、「心そのもの」に迫りたいと少しでも思うならば、読んで益するところがきっと多いだろう。力作が、世に出たものだ。




Takapan
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