本

『キリスト教のこころ』

ホンとの本

『キリスト教のこころ』
マーカス・J・ボーグ/小門宏訳
近代文芸社
\1900+
2005.11.

 2016年に亡くなったアメリカの神学者の手による好著。日本でそんなに騒がれていないようにも見受けられるが、日本語訳は何冊も出版されており、読まれてほしい、また読まれるはずだという関係者の思いを感じる。
 歴史的な研究に裏打ちされたその信仰思想は、非常に冷静である。聞く耳を持たないように自説を振りまくのでもないし、また論敵を破壊するような意図をももたない。所与の研究成果を静かに見つめ、また、現代の人々の信仰のあり方を見つめながら、そこからどのように聖書信仰が続けられていくのか、また現代にそれは何を語るか、現実的に捉える眼差しに、つい寄り添いたくなる。
 私たちは、自分の育てられた経験に固執しがちである。そもそも人間というものの文化的価値観とはそのようなものである。年齢を重ねれば、新しい芸術には理解を示さない。自分の経験してきたことの外の出来事をなかなか受けいられなくなるのである。逆に理解をへたに示そうとしても、若い世代からみれば、妙に媚びる年寄りだがなんにも分かっていない、と嗤われる。
 信仰生活についても同様で、かつての教会は、信仰は、と大上段に掲げたくなるものである。それが信仰の唯一の仕方だ、と自分の経験は物語る。なにせ、自分はそのようにして今日まで歩んできたのだから。礼拝音楽はオルガンに決まっている、と譲らない人がいる。だったら、古代教会は間違っていたことになる。ダビデの時代の聖歌隊には意味がないことになる。礼拝プログラムはこうでなければならない、と堅く信じている人がいる。しかし調べてみると、近代の西欧の教会のプログラムに由来するものであることが分かったりする。
 つまりは、つい百年、二百年単位での出来事を、私たちは究極の真理のように思いがちなのだ。それは、近代日本の伝統なるものを振りかざす人も同様である。歴史の中のどこをどう切り取るかによって、伝統文化や思想は如何様にも変化する。キリスト教もそうである。
 だから、著者にとり、いまの人が聖書を受け容れられないというのは、ここ少し前の考え方への抵抗であったり、原理主義の頑なな誤解のためであったりするわけだ。ただ、その捉え方自体も著者はおそらく絶対視はしていないだろうと思われる。自分の信仰は自分の信仰として存在することが許される。だが他人の信仰に目くじらを立てることはないだろう、というのは、できれば私たちが有しておきたい構え方のように感じられる。原理主義にしても、近代の科学的世界観により抑えつけられようとした信仰の心からの極端な反発であるとも考えられるのだ。その根底には、科学的世界観の土俵の上で躍らされているという実態があるかもしれない。
 私たちは、私たちが、聖書はこのように書いてある、と堅く信じていることについて、ひとつ距離を置いたほうがよいのかもしれない。本当にそうだろうか、と判断中止をしてもよいのではないだろうか。
 さて、そのように私の考えを呟いてきたのだが、本書は、いまこの時代にクリスチャンであることの意味を問うことに始まり、キリスト教のこの「伝統」なるものは何であるのかを見直す作業を最初に行う。これはアメリカにおける事情があるから、必ずしも日本人にはピンとこないところもある。つまり日本人にとってそれは仏教の立場に似たものであって、アメリカ人にとりキリスト教は生まれた環境そのものであり文化である。だがそれを信仰しているという意識ができず、むしろ抵抗し始めることが多いかもしれない。キリスト教文化の生活をしていながら、その意味を自分で消化しておらず、改めて信仰するという姿勢に出るには独特のハードルを越えなければならなくなるのだ。だからそれは、理論立てていくことを目的とはしない。豊かに人生を生きていくこと、そのためにどうすればよいか、という視点をもたらそうとする。
 私たちは、罪に死に新しいいのちを生きるという。しかしこの「罪」という表現がそももそ妥当なのかどうか、そこから著者は問う。これは私も感じる。とくに日本人にはこの言葉は適切ではない可能性が高い。「神」という言葉ですらそうなのだから、「罪」という言葉のもつ概念的響きが、聖書のそれと一致していないようにも思えるのだ。これはすでに信じた人には納得できるにしても、そうでない人にとっては大きな壁ともなりうる。著者は、歴史的な理解や聖書自体のことばも十分調べたうえで、いったいいま私たちが置かれたこの時代にあって、罪とはどういうことだろう、神、信仰とはどういうあり方で生きてくるのだろうと問い続けている。だから、LGBTの問題も、聖書から確かに受け容れて救いをもたらしていく道が必ずあるのだという希望をもって揺るがない。時代に媚びる必要はないが、ここに生きる私という自分が若いころに養われた価値観だけで判断することはできないと知るべきである。人を幸せにする、素朴なこの願いが、神の思いと重なることを願っている。




Takapan
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