本

『春宵十話』

ホンとの本

『春宵十話』
岡潔
光文社文庫
\476+
2006.10.

 数学者のエッセイ集。1978年に亡くなっているが、文章もなかなか人気があった。それは、歯に衣着せぬ言い方で、ズバズバと言うのが、ひとつの魅力であったのかもしれない。
 本書でも、教育に関しては、ずいぶんと、いわば酷いことを言っている。お年寄りの、体験的確信であるから、もはや誰も否定できないし、諫めることもできないのであるが、戦後教育制度を全否定し、自分の考え方のほうが絶対に良いと言って憚らないのである。外野にいる者たちからすれば、いいぞ、好きなだけ言わせてやれ、といきたいところだが、中には数学の偉い人だからと影響される人もいるかもしれない。文章を売る側からすれば、これは売れる文章である。それが教育論であるから、また複雑で難しい事情となる。
 本書は1963年に、毎日出版文化賞を受賞した作品で、多くの随筆の中でも代表作と言えるものだろうと思われる。そしてこの時代の文章であるから、いまの基準でとやかく批評してもいけないのだ。この国を憂う気持ちそのものは、私たちとも共通なのである。
 数学者と言いながら、感情を非常に重視していることが、読んでいくと分かってくる。分からないことはない。日本の立派な数学者の中には、文章が上手な方がたくさんいるが、数学的に性格に順序立てて記述する必要のある論理は、文章を書く上でも、良いつながりがあるのだと思うし、また何よりも、矢野健太朗氏のようにエレガントな解答を求め、ある意味で美的なセンスというもの、またインスピレーションというものは、どうしてもそこに必要であると私も感じる。曲がりなりにも私は、一度は大学の数学科を受験したのだから、数学のそういう一面について、考えたことや感じたことはあるのだ。
 随筆である。話題は自由である。自分の生い立ちや過去の経験を語るものもある。関心がなければ、他人の人生などそう聞きたくもないものだが、それでもいつしか引きこまれていくということはあるものだ。もちろん文章の巧みな著者のものは後者である。
 しかしまた、数学でのスランプからなのか、解決を宗教に求めたということまで告白してあり、「なむあみだぶつ」ととなえるところに平安を見出している。その道の活動にも時折触れるので、堂に入っているということだろうか。
 実は春宵十話そのものは、本書の最初の4分の1ほどのところであって、他は折に触れての随筆が並んでいる。日本人についてや、特にその情緒のこと、また思い出話や数学についての考えなど、多岐にわたる。芸術や風情、また中谷宇吉郎や吉川英治との交わりについての文章も収められている。
 やはり時代的な制約もあるから、いまの時代の感覚からすると賛同できないこともちょくちょく見受けられようが、半世紀以上昔の本だと考えると、そういうものと思って読むのが、一番健全で楽しめるというものだろう。待てよ、半世紀前のことを書くとなると、福音書も、イエスの時代から半世紀くらいで次々と書かれている。同じ感覚や同じ信仰がそこにあったとすることには、やはり無理がある、と言わなければならないのだろうということを傍証することになりはしないだろうか。いやはや、それは本書とは関係がない。




Takapan
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