本

『寂聴 般若心経 生きるとは』

ホンとの本

『寂聴 般若心経 生きるとは』
瀬戸内寂聴
中公文庫
\590+
1991.10.

 1988年10月に単行本として出ていたものを文庫にしている。それを21世紀もだいぶ経ってから読んだのだから間が抜けている。般若心経については、何冊かその解説を見てきたが、これがいちばん親しみがもてた。ここには、寂聴さんの個人的な見解も入っている。だが、そのことは十分触れたうえで述べているので、大きな誤解をしてしまうことはないだろうと思われる。
 寂聴さんについても改めて紹介しなければならない時代になったかもしれない。多少刺激的な部分を含む小説で売れっ子となった作家である。瀬戸内晴美という名でも数々の文学賞も受賞している。しかし問題もあって出家。天台宗の尼僧となる。作家活動も続け、本書は記録によると単行本として43万部を売ったという。作家だけあって言葉に対するセンスも光り、法話も実にうまい。テレビへの露出もあるなどして、寺の建て直しに寄与した。
 そういうわけで、このベストセラーについて無知だった私もぼうっとしているが、とにかく本書は、昭和62年一年間に語った法話をまとめたものだという。そのため、各章で少しずつ般若心経を説いていくことになるのだが、その前半、あるいはどうかすると大部分を、その時時の話題や身近な楽しい話で引っ張っていく。聞かせるテクニックでもあるわけだが、そこは月に一度のこの話、ちゃんと考えてある。いかにも偶然のことに合わせて話を始めたかのように見せかけておいて、ちゃんとその月に説き明かす般若心経のテーマに見事にマッチしてくる。これは、キリスト教の礼拝における説教にもよくある方法ではあるが、こちらではとくに前半どこまで違う話をするのかと思わせておいて、ちゃんと般若心経を説明してくれるようになるので、これは法話として実際に聞いた人は本当に楽しかったことだろう。そしてちゃんと仏教のエッセンスを知って帰ることができる。また、こうした逸話により説かれた般若心経の意味は、心に深く刻まれて決して忘れることがないであろう。
 そもそも仏教とはどうやって始まったか、からこの法話集は始まるので、事実上仏教入門にもなっている。般若心経の全部に触れながらも、中心となる概念をきちんと分かってもらうというポイントを突いた話はさすがである。聖書からの説教のためにも、大いに刺激を受けることができるのではないだろうか。ということで、これはキリスト教会で説教をする人にも安心してお薦めできる本だといえる。時折、これはキリスト教と全く同じと言ってもよいくらいの構造ではないだろうか、と思うこともあり、唸らされることもあった。これはいい。
 般若心経とは何か。ご存じでない方がいたら、私のような者がここで説明するよりも、寂聴さんの解説を直に見て戴きたい。私は母から、小さなころに般若心経を覚えよと言われ、覚えた。意味が分かるというものではなかったが、これは、禅寺に生まれた母にとって心の支えであったことは間違いなかった。たぶん大好きだった父親が大切にしていたのではないかと思う。死出の旅に伴わせてくれと写経を美しい文字でいくつもしたため、般若心経を晩年まで書いて暮らしていた。その心を思うとき、私にとっては般若心経というものは、大切なものであるということを否定することができないと言える。これを宗教とするべきなのかどうかも、私には分からない。仏教は宗教というよりは、智慧ではないだろうか。哲学と言ってもよい。母はホスピスで命を全うし、スタッフと賛美歌による送り出しを与えられた。その後形式としては仏式で葬儀をしたが、父方の家としては浄土真宗である。本書にも幾度か触れられているが、浄土真宗は般若心経を唱えない。思想が異なるからだ。それが分かっていて、母は、せめてもの抵抗として、般若心経をひたすら愛してそれに伴われたいと願ったのではないだろうか。当時はそんなことを考えるゆとりはなかったが、いま振り返って、そのように思えてならない。
 本書の最後には、この法話にあった、身近な話ならぬ純粋に般若心経についての話の部分をつないだような、「般若心経について」という文章がまとめられている。これは自ら発行している印刷物に連載していたものだそうである。関連話抜きでずばり般若心経のことを手短に学ぼうとするなら、ここを読んだだけでもだいたいなんとかなるだろう。私としては、脱線的な話を交えたほうが断然いいと思っているのだが、確かに無駄なところはあるかもしれない。そこで、大切なところの復習用に巻末にあると理解して、改めて読むと、「よくわかる」という気持ちになって、学習効果が高まったというふうに捉えてもよいかもしれない。
 般若心経について知りたいとお思いになったら、この本をお求めになるとよいだろう。学術的な表現はとられていないが、必要なことは皆学べるのではないだろうか。




Takapan
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