本

『花の詩画集・花よりも小さく』

ホンとの本

『花の詩画集・花よりも小さく』
星野富弘
偕成社
\1,400
2003.11

 若い中学の体育教師が、鉄棒の試技の際に落下して、首から下が動かなくなった。
 星野富弘さんのことは、もうすっかり有名になった。有名になり、多くの人に知られるにつれ、恰も星野さんの苦しみがそれだけ軽く扱われてしまっているように思われるかもしれない。
 今ここに、新たな詩画集が誕生した。今回は、花そのものに迫った姿と、それから、小学校時代の回想とが印象的である。
 新しい体験が限られ、思い出の中の経験が掘り起こされていくしかないあり方が、そうさせるのかもしれない。いや、それは外部の者の計り知れないところの事柄である。少なくとも私には、この命の言葉を、批評する資格も技量もない。神に生かされた姿には、ただ神のすばらしい救いの証しとして、神をほめたたえるためにあるものだと感じるほかはない。星野さんの働きは、まさに神がどんなに希望を与えるかという証拠なのである。
 もしも自分がそうなったら、と考えるのは怖い。そして、そうなる必要もない。神がそうなる必要をお与えになったら、そのときにはそうなるだろう。重い十字架を背負う星野さんは、その姿こそが人生そのものとなってしまった。しかし、神に生かされた同じクリスチャンとしての明るい前進の仕方は、それなりに共感できるように思う。
 その作風には、好みが分かれるという。生き方として尊敬はするが、絵は嫌いだ、という人もいる。それは正直な対応であり、星野さんにとっても、そうした誠実さは、むしろ歓迎するものではないか、と思う。ただ、それはすでにただの絵ではない。好きとかどうとかいう次元に属するものではなく、神と共に歩む一人の人間のありさまそのものである。
 自分だったら、何が残せるだろう。何を、生かされる喜びの形として示し続けることができるだろう。
 自分を平和の道具として使ってほしいというフランシスコの祈りのように、誰でも何かを始めることはできるはずだ。それがごく当たり前の日常の営みであってもよいのだから。
 花の絵と言葉に囲まれて、ふとそんなことを考え始めた。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります