本

『「話す日本語」面白ゼミナール』

ホンとの本

『「話す日本語」面白ゼミナール』
鈴木健二
海竜社
\1575
2004.6

 鈴木健二と聞いても、「誰それ?」と思う世代の人間が多くなったのかと思うと、少し淋しい。なんといっても『クイズ面白ゼミナール』でその教養と品の良さを発揮して、日本中にほのぼのとした優しさ、あるいはエスプリと称してよいようなものが見事に振りまいてくれたキャラクターなのである。
 NHKを退職した後、地方に呼ばれて責任ある地位を果たした。教養ある人間とはどういうふうに言葉を使うのか、を私たちに教えてくれた。2004年度よりフリーであるという。
 鈴木健二氏は、著書も多い。ベストセラーとして記憶に残る『気くばりのすすめ』という本のほかにも200冊ほど著しているという。
 その人柄が示すような、上品で謙虚な語り口調で、著書のほうも謙遜な姿勢がよく現れていたようであり、またテレビ画面からも、その知恵や知識の豊富なこを鑑みても、尊大なふうには少しも見えず、なるほどと思わずうなずくような言動の多かった著書である。
 その鈴木氏が、やたらべらんめぇ調で、世の中に文句を言いまくっているところから始まるのだから、この本は挑戦的である。
 言葉の使い方がなっちゃいねぇ……とでも言わんばかりに、矢継ぎ早に気になる言葉遣いの糾弾が始まる。著者にしてみれば、これはかなり心苦しかったことらしい。表向き、人のことをとやかく悪口として言い放つことによって自分の立場を保ってきたような人ではないからだ。世の中には、人の悪口を言うことで自分の地位を保ち、生活の糧を得ているようなタイプの人もいれば、人をほめることで生活を成り立たせるタイプの人もいる。鈴木氏は、けっして人の悪口を前面に出すタイプではなかった。だが、この本では少し宗旨替えをしている。いきなり、世の中の言葉のならず者に対しての攻撃の数々なのである。
 このような場合、えてして、日本語学者からのものが多い。これこれは古来日本語では間違いとされている、だの、過去の用法に照らし合わせても間違った語法である、だの、正邪で事が解決されようとするのが、その特徴である。
 だが、言葉に関して何が正しくて何が間違っているという厳格な規定を適用するブレインは、特定の人間には、残念ながらない。鈴木氏も、国語学者のパースペクティヴから、何が正しくて何が間違いだ、ということを強調しようとしているのではない。その著書の名にあるごとく「気くばり」という潤滑油、あるいは人間関係をよくする雰囲気といったもののために、言葉を使うとよいという提案ばかりである。
 ただし、私が見るに、この「気くばり」が今の世の中でどうも……と言うつもりはない。そのくばるかどうかという以前に、「気」というものが絶滅しかかっているのではないか。「気を遣う」「気の置けない」に使われるような「気」は、どことなく他人行儀な、そして人を人として認める態度を前提としている。人を人ともみなくなった電車の中の日常には、くばるどころか、「気」そのものが見当たらないという「気」がしている。
 ところで、女性については古来あるような「太陽」というイメージで尊崇している著者である。女性の言葉についての言及はたいそう多い。しかし、男女差がどうのということはまずできないので、人間が言葉を使っていくというのはどういうことか、そちらへ話は流れて行く。たんに、この言葉が正しいとか歴史的に見てどうだとかいうことが言いたいのではない。
 とくに、書く言葉というよりも、話す言葉としてどういうところに気をつけるべきかという、さながら達人的な極意が次々と語られていくので、人前で話す機会のある方は、目を通してみることをお薦めする。
 私は、どちらかというと言葉に関しては保守的で古来伝統的なタイプであると思うので、鈴木健二氏の語る言語論には、思わずうなずいてしまうことが数多い。人と人との関係や平和な生活を送るための、言葉の活用というところにまで言及してあり、なかなか有用な書となっている。だが、皮肉なメッセージすら送る鈴木氏の言葉さえも、読解力のない読者の心には、伝わらないこともあるのかと思うと、また少し淋しくなる。
 具体的な内容については、ぜひ本書をゆっくりお読み下さい。




Takapan
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