本

『あなたに話したい』

ホンとの本

『あなたに話したい』
晴佐久昌英
教友社
\1800+
2005.9.

 副題に「晴佐久神父説教集」と記されており、シンプルな装丁である。また、ずっしりとしたペーパーバックである。カリスマ神父とも呼ばれる著者。というよりも、この説教集の説教した本人。どうやら自分の説教を振り返るという機会はそうないものらしく、話があってこの出版に際して読み返したら、そこから自分自身が恵まれたという、正直な感想で最後に笑いもとっていた。
 そう、楽しいのである。FEBCでその説教がしばらくの間放送されていたこともあり、私も楽しく聞かせてもらっていた。短い簡潔なメッセージは時折大笑いをさせて戴いた。
 しかしその説教が、原稿に頼らないということを本書で知り、驚いた。もちろん聖句のエッセンスを捉えながらも、それを講解するという姿勢ではなく、生活の中の出来事と重ね合わせて示すというような手法である。決して思いつきではない、深い洞察がそこにあり、なにより現実の人間の息吹が感じられる。出会った人、先に亡くなった人、昔の思い出、いろいろな形により、実際にいた人を話に持ち出すという方法で、人の生の言葉や心をそこにつなげる。
 自分の説教に恵まれるというのは、何か自己愛的に聞こえなくもないが、実情は違う。それは本人も弁明しているものであるが、自分を通して神が語るという、説教の理想があるとする。すると自分が額に汗して準備して構築した説教ではないとなると、ますます神が自分を通して語ってくださったということの証拠となるかもしれない。確かに説教はかくあるべきなのである。
 カトリックであるから、ミサの重視も中では語られるし、洗礼の意義についても、本書の土俵に合わせて読んでいかないと、いくらプロテスタントであっても、カトリックの礼拝や考え方をよく学ぶような姿勢がなければ、独りよがりになりかねない。新しい発見もあるかもしれない。マリヤについても、どのように捉えているのかを感じ取る機会にもなる。
 不思議なことに、ここに選ばれた説教のときに開かれた聖書は、すべて四福音書である。イエスのことばを聞くという姿勢であるのならば、これは確かに結構なことである。面倒なことはいらない、ただイエス・キリストのことばを聞こう。自分を通して神が語ることを求めたい。その一貫した姿勢は敬服に値する。
 自分の生い立ちや救いの証詞も触れてある箇所がある。これはもうこの説教集に直に触れて、出会うとよいだろうと思う。司祭になるということの現実の情景を描いてあるのを見ると、カトリックがほんの少しだが近づいたような気がした。ただしこの著者は、司祭の中でも例外的存在であることは弁えておく必要がある。時に笑わせ、時に泣かせる。私も幾度涙を溜めたことだろう。そうなると、カトリックもプロテスタントも関係ないのだなという気がしてきた。いったい私たちクリスチャンは、何をこうしていがみあってきたのだろうか。素直にこの説教集に感動し、神をいっそう近くに感じられたら、それでいい。福音とはそういうものだ。福音のためになら、何の恥もなく、そのままに語る言葉を受け容れればよいはずである。
 読んでいくうちに、新しい気づきもあった。教えられることがいくつもあった。そのようにして、神の愛を称えるために、共に祈り励まし合って歩めたらいいと思った。




Takapan
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