『ハマれないまま、生きてます』
栗田隆子
創元社
\1600+
2024.5.
創元社から続けて出版されている、「あいだで考える」シリーズを楽しみにしている。正方形に近い形で、ハンディサイズ。いくらかふりがなもついていて、中学生くらいに読めるようにつくられている。が、いまの中学生だと無理かもしれない。
今回の講師は、栗田隆子氏。私にとっては、『福音と世界』でおなじみである。1973年生まれの文筆家であるが、かなり濃い人生経験を積んでいる。本書は、若者に語りかけるものである目的でもあり、自分の幼いころから学生時代にかけての状態について、かなり詳しく綴っているように見えた。
ひとつには、ダンゴムシに自分を喩えることがベースであろう。見映えのしない、地面に張り付いてこそこそと生きている存在である。特に悪いことをしているわけでもないのに、注目されれば嫌われる。それも、「生理的に受けつけない」レベルの嫌悪である。
自殺未遂の経験もあり、その様子をけっこうリアルに描くというのは、青少年向きの本として、編集部で議論があったのではないだろうか。しかしそれにも増して、「普通」というものは何かを問い続けるこの1冊は、世に問う意義があったに違いないのである。
小さな子どもの頃の自分が、ありていな「こども」とはずいぶん違った感性をもち、世間に対して斜に構えた見方をしていたことが、ひしひしと伝わってくる。しかも、幼い時分に性の欲望がどのようにあったか、ということも赤裸々に記す。これもまた、青少年向きにどうかという話もあったことだろう。だが、この「多様性」を考えるべき時代の中で、自分だけがどうなのか、という悩みを隠れてもっているような子どもがいるところへ、一筋の光が射してくることになる、と考えたのだろうか。
編集側の意図については憶測は避けるが、内容的にかなり突っ込んだこと、明らかに過ぎるところもあるのは間違いない。だから、それをあまりタイトルに臭わせないようにしているところは、私からすれば少々もったいないような気がする。サブタイトルも「こどもとおとなのあいだ」というだけのものだ。
話題は、筆者のフィールドでもあるフェミニズムへも踏み込んでゆくが、それもありきたりのそれとは違うように見える。大学院の哲学科を経ているからでもあるが、あくまでも自分で考える、という態度を保っている。但し、その「哲学」ということを表に出している様子がない。思想家の名前を並べるわけでもないし、論理的な議論を展開する様子もない。ただ、自分がどういう環境に置かれたかということと、そこから見える風景をはじめ、自分の肌で感じたことを、そのままに綴ってゆく。そこには空転する思想はない。自分が生きてきたことそのものに裏打ちされた、確かなものが伴っている。嘘のない告白でもあり、大上段に構えて人生を説くような愚かさはない。失敗や苦難を、さしあたり乗り越えてきた人生の先輩として、そしていまなおそのような生き方を続けどこかもがいているような一人の人間として、それでも若い世代に対して絞り出して言えるような言葉を探している。時にそれは痛々しい。だが、惹きこまれてしまう。
それでいて、最後は信仰と宗教の話になってゆく。さりげなく伝道がなされているのだが、当人も発行側もそのつもりはないだろう。筆者は、ティーンエイジャーのとき、死を一度選んだが、同時にカトリックの修道院に救われる体験をしている。押しつけはしないが、自分ではその信仰により自分が救われたという確固たる足場がある。教会というところに全面的に信用を置いているわけではなく、どこまでも自分の信仰スタイルがあるわけだが、それを自身のアイデンティティにしているのは確かである。案外このことについての叙述が長く、そこではまた、「宗教が犯す罪」という問題をも前面に掲げて主張する。
最近、このような発言が少しずつ見られるようになった。「宗教2世」の問題に絡むこともあるが、それにも増して、キリスト教が歴史上も何をしてきたかということと向き合っている姿勢が、そこに強い。私は、この立場に共感を覚える。むしろ、それなしで自分が正義の味方のように振る舞うことこそ、キリストの最大の敵である、とすら考えているほどである。
最後には、あのダンゴムシについて触れつつ結ぶが、そこにしっかりと「神」が絡んでくる。こうして見てくると、これは本当に伝道の本だと私には響いてくるのだが、決してそうは一般に見せないところが、巧みであるとも思う。ある意味で、このような本の書き方は、なかなかよいものだ、と思う。一つの優れた礼拝説教のようであるからである。

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