本

『ハレルヤ』

ホンとの本

『ハレルヤ』
保坂和志
新潮社
\1500+
2018.7.

 発端は、猫に関する本だった。そんなものを見つめていると、保坂和志という人に出会うのは、たぶん時間の問題だった。芥川賞などを受賞した小説家であるが、作品の殆どに猫が登場する。猫主体の文章も多いし、猫については感動的な絵本もつくっている。それを通じて私はこの人に届いたのだった。
 隻眼の猫が人物の足元にいる。花ちゃんと名付けられたこの猫が、瀕死の子猫として墓地で拾われた後、18年以上も、作者の許に生き続けることになる。子猫のときから片目がなかった。後に、16歳にて両目とも見えなくなる。その後重病が見つかり、人間のほうはばたばた大変だ。猫はなにも慌てふためかないが、人間のほうは、ありとあらゆる会話をぶつけ、薬品名を連呼しながらこうすればどうああすればどう、と獣医にあれこれ頼み込む。こうしたリアルな描写は、さすが文芸一筋の作家だ。決してコミカルなシーンではないのだが、作者が描くその様子は、くすりと笑いを誘う。いや、猫を愛する人は、特に愛猫の死を経験した人にとっては、涙なしでは読めないものではないかとも思われる。
 最後に収められた「生きる歓び」は別の本となっていたものでもあるが、ここに再掲された。「ハレルヤ」という、猫たちの物語と重ねたというところなのだろう。  この人の猫への接し方は、さすがに私も頭を下げるしかない。私は責任をもって猫を飼ったことがない。野良を呼び寄せて一緒に暮らしていたことはあったが、所詮野良は野良であった。通りがかりに出会う猫たちに声をかけもするし、公園に住んでいる猫たちのところに時々言って撫でて帰りもするが、わが猫よとその命の行方を抱きしめるようなことは経験がない。
 猫は不思議だ。人間に忠実に従う傾向のある犬と、体型は似ているけれども見分けられない人はいない、そういう猫は、人間の意のままにはならない。自由な存在だとも評される。しかし人間に近づかないものではない。猫なで声などともいい、信頼できる人間に甘えることにかけては天才である。人間を下僕と見下ろす猫を描く絵本もあった。すり寄ってくる猫を可愛いと思う気持ちは、犬に対するものとはひと味違う。猫は飼われるようになり、様々な色や模様をもつ多様な柄を得たのだというが、ファッション性からしても一流であろう。
 猫に直に接する様を描く作品ばかりではない。「十三夜のコインランドリー」では、猫のオシッコで目覚めるあたりの登場の仕方ではあるが、ここでは古い音楽についてのマニアックかもしれないような迫り方が目立つ。いや、それでもまだ近いくらいの、メジャーなアーチストが多いので読める。これが村上春樹だと、音楽への入り方がまた違う。一日中そうしたレコードをかけていた店をやっていたのだし、どこぞへ行けばレコード屋をあさりまくっていたというから、分からない世界である。それでも、村上春樹が紹介してそうした音楽を流すラジオ番組ができたから、それを実際に聴くと、いいじゃん、と言えるようになるものだ。
 話がずれた。「こことよそ」には猫が出てこなかったと思う。これは自身の文学遍歴のようなものを辿るものだが、これに限らず、聖書の内容や哲学の本がちらりちらりとこの人の文章には登場する。中学・高校とキリスト教の学校に通っていたといい、後にある作家との関わりから聖書を実際に読んだらしい。やはり聖書を手に取ると、世界は確実に拡がり、また深まるであろうと思う。
 冒頭に置かれた「ハレルヤ」には、花ちゃんのことはもちろんだが、他の飼った猫たちが登場する。チャーちゃんは、その中でも大きな意味合いをもつ猫であるようだ。絵本になったのはこの子である。ふと気づいたフレーズが話の初めとなるのだが、それが作品になるのにはずいぶんと長い時間がかかっているという。こうした背景は、別の猫についての特集誌での対談で知ったことであり、それを知っていると、本作のほうも味わい方が違ってくる。それは文学作品の読み方としては邪道であるに違いないのだが、本作だけではいまひとつ分かりにくいところがあった方は、猫対談をご覧になることをお薦めする。
 それにしても、やはりこの本の表紙の花ちゃん、切ない。




Takapan
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