本

『白痴 上・下』

ホンとの本

『白痴 上・下』
ドストエフスキー
木村浩訳
新潮文庫
\857+\819+
1970.12.

 このタイトルでよくぞ生き残っているものだと思う。トルストイも絶賛し、ドストエフスキー本人も非常に気に入っていた作品であるという。
 主人公は、ムイシュキン公爵。まだ若いが、スイスで療養生活を長く続け、祖国ロシアに戻ってくる。彼は純粋で、人を信じやすく、「白痴」と称される所以である。これは知能的にどうというよりも、世間知に乏しく「ばか」呼ばわりされるという性格によるものと思われる。普通に会話もするし、特別に変なところを感じさせない。ただ、ひとを単純に信じやすいのことは言える。もはや親もおらず、天涯孤独であるが、親戚などがおり、身を寄せるつもりであった。
 最初に、帰還する列車の中でロゴージンと出会う。ロゴージンから、ナスターシャ・フィリポヴナという女性の話を聞く。結局、この三人が最後まで話を引っ張っていく。
 ポリフォニーと呼ばれる、各性格の権現としてのキャラクターがひしめく、ドストエフスキーの手法で、賑やかな出会いと会話が続いていく。サロンなどで人が集まると、それはそれは長い会話のシーンが続く。その会話によって、誰がどうしたという出来事を語り、物語をつないでいくのである。
 ムイシュキン公爵は、ナスターシャ・フィリポヴナに出会うなり、結婚を申し込むようなことをする。彼女の境遇に同情をしたものと思われる。彼女も悪い気はしなかった。一時はそのまま公爵と共に行くのではないかというところにまで至るが、金を手に現われたロゴージンに、彼女はついていくことになる。このナスターシャという女性、奔放な発言と行動で人を振り回すが、なかなか魅力がある。この物語中、やっぱり華であろうし、私から見てもいちばん惹かれるキャラクターであった。
 周囲の人の絡みは略して、公爵とナスターシャ・フィリポヴナ、そしてロゴージンだけを追いかけた形ではあるが、これ異常饒舌に語るのは止めよう。実際にお読みにならねば、その魅力も伝わらないし、その後どうなるか、という点に気を揉むお楽しみを奪う権利は私にはない。
 最後はまた、公爵はやっぱり「ばか」のようになる。それは無垢だという意味では、良かったのかもしれない。しかし、単純にそれが良いのだ、とするつもりは、ドストエフスキーにはないようである。読者も何かしらむずがゆさを覚えながら、きっとそこでスッキリしないものを抱えながら本を閉じるのであろう。
 この純粋な公爵の姿は、キリストをモデルにしている、と指摘する人がいる。それは「本当に美しい人」であるのかもしれない。だが、ドストエフスキーは単純に割り切った解釈で説明できるほどの作品を書いているとは言えない。ただ、この素朴な人物を目の前にして、自分はどうなのか、問い直すことはしてみたいと思う。うまく世間を渡るようなことのできない人物。見たものをストレートに受け容れ、良いと思われたらすぐにやってしまう性格。騙されるということを警戒もせず、すぐにひとを信用する能天気な者が、社交界でいったい何ができるというのか。ロシアのみならず、どこの社会でも、そうした嘘と虚飾の中で、騙し騙され合いの関係こそが、人間世界には渦巻く。そこへ、小学生社会のようなあっけらかんとしたものが成立するはずがない。否、近年は小学生の間でも、大人のようなこみ入った関係の中で、心を砕きながら生きていくのがあたりまえだ、などとも言われる。いったい、何が心素直に生きるという生き方なのであろうか。
 それぞれの登場人物は、何もかも口に出してさらけ出す。そのように見える。だが、本当にそうなのか。心の中の闇までも語るのかどうか。多分に、語っているのだろうとは思われるのだけれども、これらの人物が、身近な社会の中に、確かにいるような気がしてきた。そして、私は誰なのだろう。
 それにしても、文庫とはいえ1400頁を数える小説である。単純に、自己満足はしてもよいだろうか。単純に、ばかみたいに。




Takapan
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