本

『博士の愛した数式』

ホンとの本

『博士の愛した数式』
小川洋子
新潮文庫
\438+
2005.12.

 単行本は2003年、映画化されたのは2006年。それもあって、この文庫版は100万部を売る、新潮文庫最速を記録したという。
 避けていた訳ではないが、長らく読むことはなかった。あるきっかけで向き合ったが、面白かった。塾で数学を教える身としては、中に出てくる数学についての馴染みのよさから楽しめたといったところもあるが、数学に興味がなくても、風変わりな博士には十分な魅力を感じたことだろうと思う。
 家政婦という呼び方は今でもあるようだが、一人称の物語の語り手は家政婦として、博士のところに派遣される。数学の教授であったが、事故のために、80分間しか新しい記憶がもたないようになってしまった。それを博士の義姉が引き受け、家政婦を依頼している。数学の話にも付き合うしかないが、私は数学に興味を持ち始める。それで博士は、気に入っていく。私はまだ20代だが、10歳の息子がいるシングルマザーである。博士は彼に「ルート」と名付ける。息子がひとりで留守番をするのはいけないと博士が言い、学校帰りになんと派遣先である博士の家に一旦帰り、夕食も共にするようになる。
 数学を介して三人が和やかに交わるようになるが、もうひとつ物語を彩るのが、阪神タイガースである。博士は事故に遭ったときの過去の記憶は鮮明であり、タイガースのファンとしての博士は、江夏豊投手を愛している。三人は野球の放送を聞いたり、ついには博士を球場に連れて行くが、江夏は今日は投げないけど、と話を合わせる。当時は湯舟や新庄の時代なのだ。
 大事件があるわけではないが、ちょっとハラハラするところはある。というより、日常的にある。博士は80分前の記憶をもてないが、必要なことはメモを服につけておくということで、なんとか辻褄の合う生活を続けているわけだが、そのために日常生活の中でもすでにけっこう刺激のある場面が続出するというのも本当だ。
 一人称のものは、読者がその立場に立ちやすく、比較的読みやすい場合が多いが、本書はそこそこ長い物語であるのに、たいそう読みやすく感じた。どうしてなのか最初気づかなかったが、読み終えて改めて気づいたことがある。それは、この物語には人物の固有名詞が登場しないのだ。出てくるのは野球選手だけである。博士の名前も、私も、息子の名前も、ついに出てこない。登場人物の役割が明確な舞台を見るかのように、的確に場面と人物配置を把握しやすいのである。これは文学的な効果を当然考えてのことであるはずだが、やられたという印象もある。うまく流れに乗せられていくのは、気持ちのよいことだった。
 意地悪な人も適度に登場するが、悪い人はいない。皆、尤もな理由や立場でものを言っている。社会は確かに規約に基づいて動くものであり、いかにも数学的である。その中で、数学者の博士の、記憶に支配されない自由な振舞いは、皮肉なことに、数学的に計算されない心の温かさを運び入れてくる。さりげない出来事も、先々の伏線となることが多く、作者の腕の確かさを見せつけられる。
 文庫の巻末の「解説」は、数学者の藤原正彦氏。作者から取材の申し出があり、数学について訪ねてきたのだそうだ。そのときのことが詳しく書かれている。この取材に対して数学者は通り一遍の説明しかしなかったようだが、作者から、「書く意欲がモリモリ湧いてきました」と手紙が送られてきたのだという。やがてできあがった原稿が届けられ、数学者は感動する。江夏に仕掛けられた謎も、ちゃんと最初から準備がなされている。数学は美しい。そして文学というものに対するリスペクトを覚える。「数学と文学を結婚させた」という一文は、十分文学的である。尤も、藤原正彦氏自身、腕の立つエッセイストであるのだが。
 そういうわけで、物語も感動的であるが、文庫の「解説」を、その読後にぜひ味わって戴きたい。爽やかな風が吹く物語の後に、ちょっと空を見上げたくなるかもしれない。




Takapan
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