本

『博士の本棚』

ホンとの本

『博士の本棚』
小川洋子
新潮文庫
\476+
2010.1.

 芥川賞など多くの文学賞を受賞し、独特の文学館と技術で幅広いファンをもつ小川洋子氏。ことさらに難しい文学論を呈するのではない。ただ、自分の感性については嘘をつかず、自分を見つめ、また生と死を見つめ、幾多の作品を世に出している。
 日曜日にラジオで、毎週ひとつの文学作品を取り上げて解説するという番組を、2007年から2021年現在ずっと続けている。恐ろしいことだ。750冊を毎週欠かさず紹介するのだ。30分の中で、その本について実に詳しい研究者でもあるかのように自由に話す。これを継続しているということだけで、もう尊敬するしかないと私は思う。その上で、自分の作品を次々と書いているのである。
 従って、本書がたくさんの本にまつわるエピソードを、汲めども尽きぬ泉のように溢れさせ並べたところで、驚くほどのことはないのかもしれない。短いなら2頁、長くても数頁という中で、ある本について、また読書についての思い出など、とにかく本についてあらゆる角度から思いを綴ったものがここにある。
 だから、それらを一つひとつ紹介することなど不可能である。
 最初は図書室の本棚ということで、小学校のときの図書室体験あたりから入る。その体験の随所から、著者の文学観がにじみ出てくるから、それをお楽しみ戴ければよいかと思う。そのためには、私もそうだが、小川洋子氏の文学についての考えを、ある程度知っておくと効果的に読み進めるかもしれない。もちろん、それを知らずして本書を読み、それを感じ取っていくのも楽しみであろう。
 もちろん、私は文学には疎いので、ここに挙げられた本については殆ど何も知らない。読んだことがない本の紹介やそれにまつわる思いがいくら書かれていても、「うんうん」とは肯けないものである。だのに、私は、その本をよく知っているかのように錯覚すらすることがある。
 しかし、やはり分からないのは分からないのであって、それもあってか、扱われた本をどうしても読みたいと思うようになったものがある。それは他の講演集でも触れられていたとなると、読み甲斐があると信じ、探して注文した。こうして私の地味な楽しみがまた増えたことになる。
 読書は、世界を広げる。ひとつ読んでみると、そこに登場する別の本が読みたくなる。そしてそれを読むとまた関係するものが読みたくてたまらなくなる。こうして読書ネズミ講は次々と本という子を産み、家中が本屋敷になっていくのである。この現象については、私は自身をもって証明できる。私が生きた証拠である。
 タイトルになった「博士の本棚」というのは、この本の中のごく一部の文章に過ぎないが、もちろん『博士の愛した数式』に関するものだと期待される。数学者を描く作品として成立させるだけの適切な数学知識を養うために、数学者のもとに通うなどをした著者であるから、その背後のエピソードがたんまりと含まれているのだろう、などと思ってはいけない。本当にごく僅かでしかない。
 犬が好きであることもよく伝わってくるし、どんな生活をしているのかも時折露わになってくる。生活感が伝わるというよりも、人が生きている現場が目の前に描かれるという感じだろうか。ストーリーに狡知の限りを尽くすというのではなく、ありさまを描写するということこそ文学として書く中で必要なことだと断言するからには、やはりこうした何気ないエッセイにおいても、その場の空気がすうっと流れてくるのを確かに覚える。さすがだ。
 幾度も同じ人が登場する。同じ作品にも何度も言及する。それでいい。何もカタログを眺めているのではない。思い入れの強いものは、いろいろな角度で述べなければならなくなるだろう。ほんの少しだが、私も読んだことがある本もあるので、そんなときには思わず身を乗り出すようにして読むのだった。
 とにかく次々と繰り出される本の魅力に、私は戸惑うばかりである。いったいこの1冊から、私の部屋に何十冊の本が増えればよいのかと案じるほどである。しかしその前に、このように綴ることの意味や楽しさというものを、教えてもらったことを、まずは喜んでいたいと思う。それから、死を描くことがなくても、死の声が漂ってくるようなことが確かにあるというようなことが幾度も語られることについては、著者の作品が確かにそうであるようにも思えてくるほかに、私もまた、なんだか分かる気がするというように、真理として肯けるものであると私は信じて疑わない。




Takapan
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