『母という暴力』
芹沢俊介
春秋社
\1680
2005.6
ルポのようでありながら、ルポではない。事件を素材にしながら、著者自身の仮説を訴えていこうとする本であるらしい。
私は最初から、どうにも読み進められなくなった。私の読解力が拙いのはもちろんだが、どうにも胸にスッと落ちてこない。
一つの理由に思い当たった。著者が、「暴力」とは何であるのか、定義していないのだ。そんなことは分かっているだろう、という調子でどんどん熱い説得がたたみかけられてくるが、私の思い描いている暴力というものと、著者が前提している暴力というものとが、どうにも噛み合わないような気がしてきた。
たしかに、23頁から、「暴力について私の基本的な考えをお話(ママ)してみます」とまず述べている。暴力というものについて読者と共通像を確認しておこうとしているのかと思ったら、どうにもその定義は行おうとせず、ただ著者の自由なイメージが膨らんでいくばかりのように見えた。少なくとも、暴力とはこの本でどういうものを想定しているのか、についての説明は、ついに見られなかった。
こうしたことから、定義を曖昧にしたまま、都合のよいように、言葉のイメージをその都度飾り付け替えているような可能性はないか、という疑惑で、読んで行くこととなった。
ようやく最後の「あとがき」で、この人がやはり、「母性」が当然あるという前提から始まっていることが明らかになる。
母による、つまり母であるからこその暴力というものがこの本のテーマであるが、この仮説自体、母性というものが存在しなければ成立しないはずである。その母性の存在証明は、ついぞなされていないと言ってよい。
父の手による子どもの虐待という事柄については、沈黙あるいは意地悪な言い方をすると黙殺または無視をしている、と言われてもやむをえないだろう。虐待に関しては、父親は、付随的な役割しか果たし得ない、というのも恐らく仮説に含まれていくのだろう。
思いついた仮説は、つい、どのケースをも説明できる万能のような気がしてくるものである。だが、途中からそれは歪曲された説明となる場合が多く、一定の前提を勝手に想定しているという事態に気づかないで、しかもその前提については無検証で真理としているということがある。
せめて、その「母性」とは何のことであるのか、そこもまた、明解に定義してくれたら、私にも分かりやすい議論となったことだろう。母性というものが幻想に過ぎないという説さえあるのだから。