本

『ユダヤ人虐殺とドイツの教会』

ホンとの本

『ユダヤ人虐殺とドイツの教会』
雨宮栄一
教文館
\2000
1987.5.

 ハードな内容である。ナチス・ドイツの時代に、ドイツの教会は何をしていたのか、それを丁寧に辿る一冊である。とくに、ユダヤ人が何百万と(このように数字で一括りにすることの、なんと気分の悪いことよ)殺されていく中で、教会は抵抗しなかったのか、という問いである。
 獄に入れられた牧師もいる。しかし、まさか軍に対抗するなど、できるはずがないのではないか。そのような問いかけを、著者はやらない。教会は何をしていたのか。これである。
 もちろん、日本とは事情が違う。日本では、できなかったに等しい。ドイツだと教会という制度が社会の全体を覆う形で組織立っており、これをすべて潰すというのは、社会的にありえないことであった。日本のような少数団体であったら、いくらでも潰すことができる。いや、このことは、言い訳のように聞こえるとよくない。日本の教会の中でも、一部は信仰に忠実に抵抗し、弾圧を受けた。その中で、多くの教会は天皇への忠誠を受け容れ、軍部に従った。生き残るためでもあった。これを、当事者でもなかった私たちが安易に責め立てるのもよくないのは確かである。しかし、それでよいとは決して言えないはずである。言ってはならないと思う。人を責めるためではない。これからまた、そのような時代が来ないとも限らない中で、私たちだったらどうするのか、自ら問い直すことをしなければならないと思うのだ。
 ドイツの場合も、軍に従う系列の教会ができた。他方、本書では一応「告白教会」を代表としているが、軍への翼賛をしない教会や神学者もいた。ヒトラーは、その一部に圧力をかけ、確かに国内におらせないようにすることもあったし、投獄ということもあった。が、一網打尽に反対の考えをもつ者を消すことは難しかった。だからこそまた、ユダヤ人迫害について食い止めることができなかったのか、という問いは、当然あってよい。
 ナチスの軍政権自体も問題かもしれないが、教会としては、このユダヤ人問題が、教会の教義そのものと関わっているだけに、問題としては深刻である。つまり、キリスト教徒は、イエスを十字架に架けたのがユダヤ人だということで、歴史の中でずっと、ユダヤ人を迫害してきた張本人だったのである。それを負い目と思っていたのか、実はこの告白教会も、ユダヤ人虐殺については、強く発言したり抵抗したりしていない。本書の著者にとっては、そこのところを突くのである。
 それは厳しい姿勢のように見えるかもしれない。そこまで責めなくても、と思われるかもしれないが、なあなあでは問題は解決しない。なぜなのか。そこを本書はとことん追及する。そのために、まずは情報があったかどうか、つまりユダヤ人虐殺がどのていど分かっていたのか、またその過程はどうであったか、などを検証する。いわゆるアーリア条項という法が成立し、公然とユダヤ人を社会から排除することができるようになっていく過程が特によく調べられており、こうした社会情勢の中で、ユダヤ人のための発言がどうであったかを明らかにしていく。カール・バルトの声はその中でも一定の評価を与えられており、領邦監督ヴルムの力が実は偉大であった。このあたりは特にいろいろ学ぶ思いがした。
 著者は牧師であって、ドイツ学者としてこれをしているのではない。また、ドイツのことを愛して調べているというよりも、実は、日本の教会を考えることが第一なのであると「あとがき」に書いている。日本の教会はどうあるべきか、有事に際してどういう姿勢をとるべきなのか、そこが気がかりなのであるという。ドイツの事態の了解にしても、一方的な偏った見解を正しいとするのではなく、歴史の中の出来事であるから、一見対立する二つの考えの、そのどちらもに正しい部分があって、真実はその間に位置するのではないかとして、意見に拘泥するのではなくて、事実を見ようとしている。それは、著者のいる地域における、弱い立場の人、かつてのユダヤ人のような差別的な扱いを受けているような人々を守る活動と共に活かされる道でもあることだろう。
 そして改めて問い直さなければならない。私たちは、どうなのであるか。「そのとき」どうするのであろうか、と。




Takapan
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