本

『ぐるりのこと』

ホンとの本

『ぐるりのこと』
梨木香歩
新潮社
\1365
2004.12

 読み始めたとき、筆者はたいへん頭のいい人だと感じた。文が巧いことにはさして驚かないが、その背後に、何か聡明な眼差しを感じざるをえなかった。
 その私の直感は、外れていなかった。身の回りのことから始まり、広く世界に問いかけるエッセイは、人の心をそっと包むようにして握りしめるものであった。
 そのことにはっきり気づいたのは、52頁の記述だった。世界の対立関係は、たとえば米ソのようなものではない、と筆者は言う。「直線的でスピード感の強い動的な動き」と「進歩ということがそもそも念頭にない前近代的ともいえる静かでわかりにくい諸々で構成されたムーブメント」とが、大きく対立しているのだということが見えてきたという筆者の語りであった。
 私も最近、そのことに気づいた。だから、痛いほどよく分かった。これらの前者は、後者さえも、何かと対立の図式の中に相手を盛り込もうともがくのだが、実はその相手がせっかちな対立とは違うところに立っていることに気づかないというものだ。私などは、多分に後者である。
 そう、世の中には先鋭的な対立を好む人がいる。そして、自分の想定するとある対立的な図式の信念にそぐわないという理由で、私のような者を徹底的に非難・糾弾するのである。残念ながら、私はそもそもそうした対立を頭に置いていないがゆえに、迫られてもどっちだなどと言える立場にない。無理難題なのである。対立とは、何かそぐわない二つのものが向かい合っている状況を言うはずだと信じている人は、対立を乗り越えていけないかと模索している人のことを理解したくないらしい。対立すべきだという側と、対立は超えられないかと模索する側とが、対立しているわけである。
 それは、白か黒かしかないはずだと堅く信じて疑わない人が、その中間の色の度合いや、有彩色の豊かな世界を見る人を許せないと言っているような風景なのかもしれない。
 どっちなのだと迫られた末の選択が、世の中の動きを加速する。そのような説明を、筆者はしていた。そこだ、そこ、と、まるでマッサージ師にツボを当てられた人のように、私は転がりそうになった。さすが、言語化する才覚とはこういうことだ。
 その頁から、私は襟を正して読み進むこととなった。筆者の言葉は、国際平和から身近な境界問題まで、縦横に展開し、しかもそこに、心が伴う。子どもが子どもを殺めた事件についても、世のおとなたちのうわべばかりを撫でていく言葉に憤慨する中で、児童相談所所長の涙に、初めて人間に会えたと感慨を漏らすあたり、私もまったく同じ気持ちであった。
 話題は思いのままに飛ぶ。あたかも、風が思いのままに吹くかのように。そしてその場所で、実に研ぎ澄まされた感覚を以て、世の中を別の視点で見つめる。実に具体的な描写的な叙述に触発されて、私の頭脳は自由に哲学的思考に誘われてゆく。こんな不思議な体験も珍しい、などと感慨深く頁をめくる。
 日本に巣くう怪しい思想的な空気のようなものを、芥川龍之介が感じていたことは、私が何度も触れることである。筆者は、芥川が漠然と感じていたことを、ようやく百年の後に、言語化することに成功するのかもしれない。
 それにしても、私はラッキーである。最近、こんなわくわくするような本に何冊も出合っている。この筆者の、祈りと言ってもいいような言葉の置き方は、たまらなく愛しいものと思えた。こうしたよい本を書いているのは、私の世代に近いような女性が多いのは、偶然ではないような気がしてならないのだが……。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります