本

『神さまショッピング』

ホンとの本

『神さまショッピング』
角田光代
新潮社
\1600+
2025.9.

 帯に、「何かに救われたい、神さまに会いたい、と願ったことがある人に届けたい小説集」と緑の文字で書かれている。
 一年前に、『方舟を燃やす』を読んだ。宗教的な地盤の中での物語だった。長編であり、キリスト教会を舞台に、ノストラダムスの予言とコロナ禍とを重ねながら描いていた。ともかくも宗教的なモチーフを真っ向から取り上げたものだと言えた。ただ、信仰内容や教義というものを扱うというほどのものではなかった。
 今回は、短編集である。200頁余りの中に、8つの物語が鏤められている。一つひとつ、登場人物も違えば、設定も旅ゆく先も、まるで違う。
 女性の友だちのグループであったり、夫婦であったりと様々なシチュエーションがあるが、どこか宗教的な施設を求める動きがある。その幾つかは、あちこちのアジアである。ヨーロッパもあるし、日本国内であることもある。
 小説については、ストーリーをここでは説明しないことにしているのだが、印象は語ってもいいだろう。そして、私にとり心に迫るものがあったものについては、お伝えすべきだろうとも思う。
 本のタイトルにもなっている、「神さまショッピング」、やはりこれは私にとり強いメッセージを覚えるものだった。というより、ここに描かれたのは、ささやかな罪意識である。それは本当にささやかなものだった。現実に何かをしたというのでもない。実のところ、何の影響も与えていないはずである。だが、自分か以前口にした一言について、報道されたある事件が、その自分のせいであるかのように思えてならない、という事態がそこにあった。  別の機会にも綴ったことがあるが、2005年尼崎に於いて、福知山線のJR脱線事故が起こったときのこと。街頭インタビューされた老紳士が、感想を求められていた。テレビ局は、恐らく運転士を追い詰めたJR西日本への非難の声を集めたかったものと思われる。だが、老紳士は、これは社会全体の責任だ、とはっきり言ったのだ。インタビュアーは、それについて行けなかったようで、「はあ」という感じでマイクを引いた。だが、私にはその紳士の思いと同感だった。JRのせいにしようとする、その心が、実は加害者そのものであるに違いない、と見ていたのだ。さらに言えば、日頃列車の遅れに対して不平を言ったことのある私自身が、あの事故を起こしたのだ、という強い意識があった。
 こちらの小説に於いても、それに近い意識が描かれていたのだ。
 パリの教会で、その思いを祈りにする。――ただ、それが「信仰」というものになる様子は見られなかった。そこにあるのは、ほんのかすかな「祈り」の気持ちである。
 確かに、それぞれの物語は、宗教施設に関わる。だが、信仰への高まりは描かれない。ただどことなく、何か見えない力や存在に託すような心の揺れのようなものがあり、日常の中で行き詰まった事態に、新たな光、あるいは新たな道を与えてもらえないか、というような形で、心の解放を経験するような展開がそこにある。
 その傾向は、この物語だけに限らず、全体の雰囲気がそのようであるような気がした。何かしら宗教的雰囲気というものを理解はしており、それを敬う気持ちは確かにある。ただ、それに全身を委ねるようなところへは走らない。困惑した心を、一瞬だけ、外からの何かが助けてくれることを求めているような感じがする。
 最後の「絶望退治」は、何か身につまされたような気がした。息子が手に負えない母親が、独りで悩むのだ。その息子のすることといったら、もう目も当てられないような様で、読んでいるだけで痛くなる。その息子と縁を切るために、京都の縁切りの御利益があるという神社に彼女は向かう。その決意はもちろん揺るがないものだったが、さて……。
 集められた物語は、必ずしもどれもスッキリとした解決が与えられるものではない。宗教的なものに出会って、何か心が揺られても、また日常に戻らざるをえない示唆があるし、宗教の世界にちょっとつま先だけ足を浸したとしても、体全体をどっぷりとそこに浸からせるようなことのない展開のように見えたのである。だが、この物語には、脇を流れる川のようなものがあって、それが効果的に場面を形づくってゆく効果が美しく描かれているのを強く感じた。信仰や宗教団体への関与はない。だが、宗教的なものを超えたところで、天啓の如くに与えられる何かが、そこにあるのだ。
 著者自身、ミッションスクールの経験が長かったと思う。登場人物の中にも、ミッションスクールにいたために、賛美歌が歌える、といった少し不思議な人材が幾度も現れるのは、そうした自分の姿を反映させているのではないかと思う。ただ、だから教会に自分が属する、というような立場になっていないために、宗教の空気はとてもよく分かるのだけれども、宗教をやはり外から見ている、というふうなスタンスが、小説世界にも滲透しているのではないか、という気がするのだ。
 それは、日本人が、宗教的なものに大いに関わっておきながら、自分は無宗教です、と口にするという、世界の常識からすればクレイジーな立ち位置にいることと、無関係ではないようにも思う。何かしら尊いもの、聖なるものに触れることについては、感覚は敏感なのだ。しかし、一定の宗教の「道」に入るということについては、逆に警戒心をもつようにもなっている。特に近代社会で、科学や経済のアニマルのように言われるようになってからは、ますます、この世界こそ目的であって、でも時にちょっと見えない世界からの刺激が欲しい、というような姿勢を当然のこととするようになったのかもしれない。
 その意味で、ここに描かれた人々の「神さま」というものは、案外日本人の常態を的確に映しだしているのかもしれない。キリスト教の伝道を大切にしている人々からすると、本書から得るものは、案外大きいのではないだろうか。




Takapan
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