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『グノーシスの神話』

ホンとの本

『グノーシスの神話』
大貫隆訳・著
講談社学術文庫2233
\1080+
2014.5.

 膨大な資料集である。大きなシリーズの中でこうした企画があり、それを参考にしながらまとめているのではあるだろうが、その企画を含めて、実に大変な作業であっただろうと思われる。
 グノーシス主義は、初期キリスト教にとっての天敵であった。イエスは、ファリサイ派と闘ったとされる。だが、その弟子たちにとっては、ファリサイ派はもはや敵ではなかった。エルサレム自体が、ローマ帝国により崩壊し、サドカイ派は壊滅、ファリサイ派はディアスポラとなったユダヤ人を精神的に各地で支えるユダヤ教の基盤として細々と続いていくリーダーとなりはするが、次第に根強く拡大していくキリスト教を押しつぶす力も興味もなくしていく。このとき、我こそはそのキリスト教の真実なりとセンセーショナルな解釈を以て沸き起こったグノーシス主義が、十二弟子からの流れを組む者たちにとり、脅威となったのである。
 そもそもグノーシス主義とは何か。漠然とした理解などではない。歴史的な史料から細かく辿り、読者に提示していく。いわゆるナグ・ハマディ文書の概略を調えた上で、その叙述を訳した形で次々と紹介していく。その思考に慣れない私などは、正直言ってその内容についていけない。あまりにお伽話じみていて、聖書とはかけ離れている。だがまた、一般の人から見れば、聖書とて同類のお伽話に見えるかもしれないと思うと、この文書の内容もひとつの物語や世界観を示すものとして、どういうことを言っているのか関心が涌く。
 続いて、マンダ教。それからアウグスティヌスで有名なマニ教。様々なそれらの側面が明らかになる。実態や、現代への影響などが説かれる。ある意味で退屈ではあるが、それというのも、この史料ばかりの中では、それが今の自分たちとどういう関係があるか、見当がつかないというか、まるで別世界の空想話に過ぎないというふうにしか思えなかったのである。
 ところが、最後にグノーシス主義と現代との関係が「結び」として割かれている中で、初めてこの書の意義が明らかになったような気がした。ここのほうが実に現実味があり、親身な感覚がした。後のキリスト教の思想史に対する影響から始まり、現代のニューエイジ運動につながる動きが説明される。もとより、これは著者の意見でもあろう。立証されたというものではないはずだが、説得力はたいへんある。このためにこそ、著者は膨大な史料を苦労して訳出し、ここまで紹介してきたのだ、とも理解できる。もちろん、現代のスピリチュアルな情況が、グノーシス主義である、などというつもりは毛頭ない。著者も、それは違うと言っている。むしろ現代のそれは、グノーシス主義と対極のストア派に近いものがある、とも言っている。だが、世界の現実から抜け出していく傾向には、確か通じ合うものがあるというのだ。
 キリスト教が空理空論にならなかった一つの理由は、それが現実に影響をもったからである。現実世界を説明し、それを変革するために用いられたからである。空想の世界、ひどく言えば妄想の世界に逃げ込み、現実逃避をして、抽象的な世界観を楽しんだわけではないのである。グノーシス主義には、どこかそれがあった。自分の思い描いた理想の世界、現代で言えばファンタジー、あるいはアニメだの萌えだのという世界にひたすら入り込み、そこにしか拠り所を持てなかったという精神世界があったのではないか。ただ自分の思いだけが真実で、その真理を自分は生きる。自分だけが信じられる。自分の考えこそ尊い。これを理解できる者はそばへ来い。理解できない者は関係ない。別世界の人間なのだ。こうした心の状態の現れという点で、グノーシス主義を観察することにより、現代観察しづらい同胞たちの中の危険性や脆さといったものに気づくようでありたい。著者がそのように考えているかどうかは分からないが、私は感じた。
 事実、そうした世界観を背景にした事件がワイドショーや新聞の社会欄を賑わすことの多い昨今である。私たちにとり、グノーシス主義は、見つめるだけの価値ある歴史であったのだと言えるのではないだろうか。




Takapan
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