本

『銀河鉄道の夜』

ホンとの本

『銀河鉄道の夜』
ますむら・ひろし
宮沢賢治原作
扶桑社文庫
\550
1995.3.

 2012年現在、まだこの文庫は通常に販売されているらしい。息が長い。
 失礼ながら、私は古本屋で買った。もうあの衝撃的な映画化からも四半世紀経っているというから、時の流れは早い。なにせ、キャラクターが猫になったのだ。
 宮沢賢治について、私は文学史の一覧に毛の生えた程度しか知らなかった。もちろんいくらかの童話も目にしている。が、難解だという印象があった。また、法華経に帰依しているという点も、ちょっと近寄りがたいものがあった。
 それが、このたび誘われて観たのだ。映画「グスコーブドリの伝記」を。これも「銀河鉄道の夜」同様、同じますむら・ひろしのキャラクターである猫なる姿の人物像で描ききっている。どうも誘った妻は、この映画の宣伝で、小田和正の曲が流れていたのを聞いて、私に観せようとしたらしいが、私はテレビの宣伝を知らずして、ただ観に行くことになる。ところが、私は予備知識なしでその映画を観て、実に心の深いところで触れあうものを感じたのだった。原作とは微妙に変えているという話だけは聞いていたが、後で原作を見て、どうやら震災のことを映画にはこめているのではないかというふうに感じるのであった。  こうやって、宮沢賢治の思考法のようなものに少し慣れてから、実は買ってから眠らせていたこの文庫本を取り出して、読むことにした。今なら、読めそうな気がしたのだ。
 結果、もちろん私は宮沢賢治について詳しく知るわけでもないし、研究者でもファンでもないのだが、なんだか私なりに、深く感じ入るものがあった。つまり、納得しながらストーリーにつながっていくことができたのだ。
 それは、キリスト教への賢治の憧れのようなものをもそこに感じたせいであるのかもしれない。いや、そういうことでもなく、宗教に深く心を静めた人ならば、ある意味で共通に感じとることのできるようなものを共有したような気がしたということである。神さまは一つだというジョバンニの言葉も、十字架の多用や讃美歌「主よみもとに」の効果的な使い方など、キリスト教を賢治の夢の世界の描写に、不可欠なものとして持ち出している。そもそもジョバンニという名自体、ヨハネのことである。
 そして、死後の魂や人間の幸せといったものに対する問いかけがそこを貫いていることだ。賢治は妹の死でそうしたことへの思いを募らせたのかもしれないが、やはり感じる心には似たものはあるはずだ。
 この文庫本は、著者による賢治の童話のマンガ化のひとつであるのだが、特徴的なことは、初稿と最終稿とを、別々のマンガ作品として描き、どちらも収録している点である。読み比べができる。どこが同じで、どこが違うか、極めて分かりやすい。そしてそこに、妹の死を通しての、賢治の考え方の変化を味わうことができるのだともいう。この二つの物語を並べて置いてくれただけでも、作品としての価値が上がったのではないかと思われる。
 さて、どちらが好きだろう。やはり、ブルカニロ博士が、説明を加えるシーンの残る初稿のほうが、どこか勇気や力を与えてくれるような気がするのは間違いないだろう。しかし、戻ってこないであろうカムパネルラを最終シーンに描き、しかもジョバンニがそれに背を向けて走るという最終稿も、味わい深い。死期を察した賢治の心境の一つであるのかもしれない。こちらには、宇宙論の授業が冒頭に掲げられる。これも実に大きなものを含ませたシーンであることが後で分かる。これもいい。
 逆に言えば、どうして最終稿で、博士との名シーンを全部省いてしまったのか、という点が一番問題になるところであろう。そうしたものを超えて、もう賢治が遠い銀河の向こうに飛び立とうとしているからだろうか。いや、そんな簡単なものではない。研究者もさかんに調べてくれているようだが、要するに読者はそれぞれが、そこを自分の人生として味わえばよいのだろう。自分もまた、銀河鉄道の切符を手にしているものとして、旅の終わりを感じるだけでよいのだ。良い文学作品には、そうした力がある。マンガとしても、素人目ながら、なかなかよく描けているのではないかとありがたい気持ちになった。
 文庫のマンガは、若干文字が小さすぎてしまうところが難点だが、持ち歩くにはよい。通勤の電車の中で読み終わった。さわやかな帰宅となった。




Takapan
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