本

『技術の哲学』

ホンとの本

『技術の哲学』
村田純一
岩波書店
\2500+
2009.7.

 著者の論文を別に見て、この人の本を読みたくなった。こういうことも時々ある。こうやって、本がまた増えてゆく、というのが、魅力でもあるし、私の困ったところである。
 技術というテーマは、あまり深められていないように思う。ハイデッガーの技術論が知られているが、薄い本であるし、自分の思想を技術という題材に絡めている傾向が強いので、技術という事象そのものについて検討しようとしているかどうかという点では、あまり期待できない。
 せめて科学と技術との違いについては、議論が見られることもあるが、大抵は何か別のダシのようにちらりと触れられることが多く、だいたい分かっている常識だよね、というふうな扱いであることすらある。
 そもそも技術とは何か。本書は、A5版で200頁ほどを使い、ひたすら技術について問い、それについての説を紹介しては、批評するということを続けた。その意味では、「技術」について考えてみたい人にとっては、実によい道案内である。
 しかし、何か便利な説明に終始しているというわけではない。本書は、「問い」を大切にしている。何らかの解答をしてしまおうというのではなく、むしろどのように問えばよいのか、を模索し続けているようにさえ思える。
 だから「序章」ではこう問われる。「なぜ、現在、技術は哲学の根本問題となるのだろうか?」と。これが章題である。そこには、そもそも現在深刻な問いとなっているこの問題は背景が、逃げることなく掲げられる。人類がエネルギーを昨今消費し尽くそうとしており、また地球環境を破壊し続けている、という現実である。これはむしろ、若い世代のほうが正直に問うているように見える。私も、幼い頃からそれを案じていた。その怒りのために、自分のような者が生きていてはいけないのではないか、とさえ思っていた。
 この問いを、巧妙にさけて、さも尤もな批判を「相手」に向けてぶつけるが、自分自身がまさにその破壊を行っているということについては、触れようとしない。触れたくないから、これを問題化しない、私はそのように捉えている。
 あるいは、こういう考えも広まっている。科学自体は善でも悪でもないが、技術が科学の成果を悪に導いた、などという声だ。こうした、無責任で偏った思い込みに対して、哲学は何ができるのか。本書は、それを真っ向から問い、立ち向かおうとして始まる。
 本書の議論を逐一辿ることは控える。だがあらましはお伝えする。まずはプロメテウスの神話だ。技術を考えようとするときには、ちらりと引用される神話である。その次には、やはりプラトンである。プラトンはソクラテスの対話の中で、哲学のひとつの場面として、技術を扱うことがある。結局目するところは「よく生きる」ことであるから、やはりそのための脇役ではあるのだろう。だが、プラトン哲学が後世に与えた影響は、あまりに大きい。もちろん、アリストテレスの哲学で体系化されたものが、ヨーロッパ思想には最大の直接的な影響を与える。
 ここから、ありきたりの説明であったら、近代に飛ぶところだろう。中世には、科学や技術について見るところはない、と。だが本書はもちろん、そうした態度はとらない。中世キリスト教のもとで、信仰と労働は、私たちの思い込みとはかなり違う側面をもつさ。技術は確かに発展していたのだ。労働の意義となると、宗教改革の特にカルヴァンから始まる、と信じている人もいるが、そうではない面を本書は強く示す。ここはかなり読み応えがあるところである。
 近代では、まずベーコンという巨人が大きく扱われる。これも、通常の哲学史が、意外なほどに軽く済ませているところである。倫理の教科書に、四つのイドラとか「知は力なり」とかいう程度で終わるもので片付けてしまうのが通例だが、そこに釘を刺す。
 この後、科学革命を経て、科学と技術の関係についての理解の対立を経て、様々具体的な思想が次々と紹介される。一つひとつ味わいがあり、実にたくさんの技術論があったのだということを思い知らされる。ここはたいへん勉強になる。なるほどそういう角度から見ることもできる、と学ぶ。だがそれにもまた新たな問題点が見いだされる、というふうに、問いは続き、理解は深められてゆく。
 ついにはフェミニズムまで巻き込み、最後はデューイとヨナスで結ぶ。道具とか責任とかキーワードがあるが、その視野で技術というものを捉えることが、現代の私たちの危機意識にも、また必要な視野にも、強く関わるものと見るべきなのだろう。
 なお、「補論」として、「日本における技術哲学」が最後に置かれている。西田幾多郎、三木清、戸坂潤という三人が、技術についての非常に有意義な発言をしているのだという。こうした慧眼に学ぶことは、確かに必要である。だが、もうこれらの人々の時代から、百年が経とうとしている、とも言える今、技術の力は、収集がつかなくなるほど巨大になっている。だが、だからこそ、まだそれを懸念していた時期の思索から、私たちは新たな学ぶことができるかもれない、とも思う。どうすれば、その後の本当の危機の現れを知ることができたのだろうか。その問題意識は、いま私たちが、何に気づかねばならないか、ということの学びとなるに違いない。




Takapan
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