本

『疑似科学入門』

ホンとの本

『疑似科学入門』
池内了
岩波新書1131
\700+
2008.4.

 タイトルの「疑似科学」という言葉。これ自体を著者が発明したわけではないが、それに近いところにいて、この語を新しい概念として提言しているといえよう。科学の風体をとっておきながら、実は非合理的であるものである。子ども騙し程度のお遊びならまだ娯楽にもなるだろうが、当人はマジである。そして世の中を危険に導く。しかも当人は思いきり善をなしており、またそれを正しいと信じている。また逆に、科学が述べていることを疑い、自分たちのかなり神秘的な思い込みをこそ真実のものだと主張するのである。
 確信犯という言葉があるが、自分の正しさを自分でこれ以上ないほどに信じているのだから、始末に負えない。
 そして人々がこれに賛同していく。どうしてか。自分自身で考えないからだ。自分でややこしいことを考えるよりは、誰かに考えを委ねている方が、自分は楽なのだ。しかしこの時代、情報が溢れている。だからなおさら、真摯に考えることが面倒でたまらなくなるだろう。ポチッと押せばなんでも向こうからやってくるのだ。
 こうした時代の危機は、多くの論者が憂えている。だがただぼやしていてもどうにもならない。著者は、相当にこうしたことに怒っているのはよく伝わってくるが、それだけでなく、どうしたらよいのか、その打開策を考えている。この提示がなければ、ただのぼやきになってしまっていたかもしれない。
 疑似科学というふうに呼ぶそれは一体何ものなのか。著者はこれをいくつかのパターンに分ける。「第一種疑似科学」は、人間の不安や好奇からくる心理あるいは欲望をうまく操り、科学的に根拠などないのよ、尤もらしく示すタイプ。占いや超能力などをイメージするとよいだろう。宗教系もここに含まれる。結局金儲けに勤しんでいると、この仲間になるだろうという。
 次に「第二種疑似科学」がある。科学を乱用や誤用し、科学のように見せかけるが、例えばゲーム脳だとか、欧米だと永久機関とかいうものを信じさせるのだ。いやいや、それはトンデモ本の類いだろうと高を括っていると、マイナスイオンや活性酸素、アドレナリンや健康食品の類いで、科学的な名前がついているととびつく私たちは、かなりここにひっかかっていることになりはしないだろうか。あるいは、因果関係のないことも、さもそれらが関係しているかのように説得すると、そうかもしれないと思い始める私たちの姿が映し出される場面がある。まことにヒュームが、見かけで連続して起こっただけで原因と結果だなどというのはおかしいだろう、と指摘したことを、人類はちっとも教訓にしていないようだ。
 さらに著者は、「第三種疑似科学」というものを提示する。世界は、一筋の論理で動いているわけではない。天気予報は、昔よりは精度が上がったが、それでもデータがあまりに多く複雑であるため、情報をまとめあげることができないのである。科学的に、こうだからこう、と単純に説明できないことは、世の中にたくさんある。環境問題とて、あまりに複雑な事情が絡んでくるために、確かなことは分からない実情がある。地震予知もそうだ。公害病の責任や裁判についても、この因果関係があやふやだというので原告が泣いているという事情がある。著者はこれを、疑似科学のカテゴリーの中に入れることをためらっている。そもそも何が正しいのか、科学そのものが分かっていないからである。そして、これの適否を判断するのは、科学というよりも、もっと社会的な概念においてだからである。
 だが、この最後のものは、疑似科学という著者の批判スタンスの、本質に関わるものではないだろうか。「予防措置原則」というものを著者は提言する。たとえ科学的な真実として現在の説明が完全に正しくないのだとしても、将来の危機を招かないためには、こちらを選んだほうがよいのではないか、と考えることである。環境問題には、反環境問題側の言い分にも、確かに筋の通ったところが亡いわけでは亡い。だが、もちろんそれは完全に正しい訳でもない。もし環境問題対策をとることが、自然全体のレベルから見て、あるいは神の目から見て、間違いが含まれていたとしても、将来の人間存在や地球にとりよいことをもたらすであろうという見通しが立つならば、それを選んで損はないだろうということだ。これはパスカルの賭けの構造であると言えるだろう。神の裁きがあるかないかは賭けである。もしなかったとしても、この世で正しく生きていくことは幸福であるだろう。もしあったら、それはもう絶大な喜びとなるはずである。どちらにしても、神を信ずることに損はない、というような考え方である。
 これにより、著者も言うように、著者のこの疑似科学批判そのものが果たして適切であるのかどうか、問われることになるのである。この自己批判の眼差しを意識しているところに、私はこの本の誠実さを見た。これがあるからこそ、人は信用できるのである。自己認識能力のない者はほんとうに哀れである。自分だけが正義のように呟く道具がいまあるから、気づかないのだ。
 この反省作用がある以上、その言明には価値があるはずである。「疑うことにより、考えよう、そこから信じることもできる」というような発想が、著者の「疑った上で納得すれば信じる」という原理は表しているように思われる画、それは宗教の正反対のように見えながら、多分にそうではないと私は感じる。宗教も、それでよいのだ。そして、著者が指摘しているように、このような精神は教育によってこそ育むことができる。学校現場だけではない、教育。教会もまた、教育機関なのであるが、その辺りが崩れてきているのが、教会に未来がないひとつの背景である。
 本書はその後あまり話題にされないようだが、もっと活用されてよいのではないか。教会での学び会に、こういうのがよいのではないか、と私は強く願う。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります