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『原発と私たちの責任』
日本福音同盟神学委員会編
いのちのことば社
\1050
2013.6.
21世紀ブックレットのシリーズの49巻目。ブックレットとしてはやや厚くて内容が豊富となっている。
もちろん、東日本大震災の福島原発事故を受けての論考となっている。幾人かの執筆により、いろいろな考え方や立場、あるいは信仰といったものが受け取れる。ともすれば、ひとりの意見や捉え方に偏りがちなこうした議論を、適切に分散させているように見える。というのは、一貫してただ「原発反対」と叫ぶばかりで、それこそが正義である、というふうに訴えるだけのような出版物が世に多いからだ。
原発の技術そのものに問題がある、という視点がある。聖書の中の記述と関わらせている点が、クリスチャンには参考になる。ただ、そうでない人にはどう受け取られるか、そこが分からない。もとより、このタイトルの「私たち」というのが、クリスチャンを指していると理解するのが自然であるから、このシリーズからしても、それが相応しいのは確かである。だが、この地上に生きる人間一般である、という捉え方ももちろん可能であろう。「私たち」と、ある意味でぼかしてあるのは、それはそれでよいのかもしれない。「クリスチャンの責任」とはしていないのである。
しかし、やはり通り一遍の聖書解釈が議論されることになるのは当然でもある。創世記において、支配せよ、と命を受けた人間がこういう原子核技術を手にしているのは、適切であるのかどうか、という議論である。これを、いろいろ弁神論的に、あるいは人間擁護的に、正当化を目論んでひたすら熱く語る、という方法もないわけではない。また、それもあってよい。そのように高をくくると、この本は良い意味で裏切られる。実に冷静なのだ。
その際、歴史の中の思想や哲学を追いかけてくることもある。たんに聖書を弁明的に並べ立てるわけではないのだ。また、原子力問題のために、決してクリスチャンであるとはいえない、物理学者の高木仁三郎を持ち出すことは、この場では必然であるとも言える。というのは、高木氏は、聖書を見事に題材に選び、しかも、ありがちな、キリスト教が自然を壊した、という思い込みのようなものに引っかかることなく、広い視野で深く聖書と人間を見つめているからである。クリスチャンもまた、高木氏の分析を無視することなどできない。むしろ、これだけ聖書を丁寧にたどり、その聖書を柱にして人間と文明を論じてくれていることを感謝して、大切に取り扱うべきだというふうにも思えるのだが、果たして、六氏の中の少なからず人がその点を評価し、また、正面からその論考を取り上げたものも複数あった。これは当然と言えば当然であるものの、やはり必要な手続きであると言えるものだろう。
原発への警告を、思想的に早くに掲げていた高木仁三郎氏自身は2000年に他界したが、その思想は私の哲学徒時代も話題に上っていた。時に生命倫理だとか環境倫理だとかいう問題が取り上げられていた時代である。ただ、それが聖書を踏まえてのことだったので、私の身の回りには、正面切って取り扱える人はいなかった模様である。私もまた、耳で知っている、という程度で通過してしまった。いまこのようにして、クリスチャンとしてその思想に触れたことをうれしく思う。また、ある意味で先に触れておかなければならなかった、と悔しい気もする。
さて、具体的にこの本ではどのように論じられているのか。何が取り扱われているのか。それは、読者が直に対峙して確認すべきだと思われる。ただ、サブタイトルのようにして「福音主義の立場から」とあるので、決して聖書を離れてあるいは聖書をただ利用して語ろうとしているのではないことも確かである。むしろ、聖書は正しい、神は聖書で間違ってことを語っているわけではない、という大前提からスタートしている。その意味では、やはりクリスチャン以外の方々への一般性は薄いかもしれない。実際、読み進むときに抵抗を覚えるようになるものだろうとは思う。しかし、六氏の視点がそれぞれ異なり、同じ信仰を掲げていつつも、原発を無くすべきだという方向と、原発を無くせとは言えないというある意味で正直な声も重なってくる。
いずれにしても、人間自身、この技術を取り扱えるほどに完全ではなかった、ということは確かである。そして、人間の貪欲さ、欲望といったものが原理として動かしてきたことを、正当な前提として認め続けてよいわけではない、という声は重なってくるように思われる。そして、原発をなくせというシュプレヒコールでさえ、原油を用いる火力発電への移行というくらいしか頭に置いていないのは、後世に対して有限なエネルギーを自分本位で使うだけのことだということを忘れているのではないか、という警告が、ここに伴ってくる。これは全くその通りである。原発をなくすならば、たとえば水力発電だけで賄える、そういう文明と経済の枠の中で私たちは生きるべきなのである。私たち先進国レベルの視点で、今の贅沢な生活水準や経済規模を満喫しながら、原発をなくせ、と発言することは、原理的に不可能なのである。では電機のない時代に戻るのか、という単純な脅しで、その指摘を踏みつぶそうとする威圧的な視線を恐れる必要はない。私たちは、私たちの信仰の対象である聖書に基づくことがたとえなくても、人間の自分本位な欲望を指摘することができるだろうからである。
結局、どのように聖書を用いて論じても、それは、聖書を信じない人に効力をもちにくいのは事実である。そして私たちも、自分たちが信じて正しいと信仰している聖書を背景におくときに、背景に置いたこの自分も正しいのだと主張するための権威としてそれをやってしまうことがありうるのである。どのように解釈しようとも、聖書を解釈しているのだから自分の考えは正しい、としてしまうのである。その意味では、聖書の言葉をたとえどのように引用し、解釈して持ち出しても、どうかすると自己の正義を根拠付けようとする、私たち自身の欲望の故であるかもしれない、という危険性を知るべきである。その上で、それでもやはり、聖書というものに聞こうとしながら、私たちは、今を生きるのでなければならないし、それしかできない。
だから、この本のタイトルには「責任」という文字も付いている。原発や原子力に対する、私たちの思想を述べるのが主眼ではないのだ。そこに伴うのは、私たちの「責任」である。この責任感がない発言が、感情的に大声でなされることがしばしばあるが故に、この「責任」という言葉とともに、原発の問題を据えて関わっていく、という点に、このブックレットの大きな意味があったのではないか、と私は思っている。
なお、内容的には、哲学や思想に関する一定の知識を要するものが多いため、それらが何もない読者が読むと、戸惑う場面が多々あるかと思われる。これを機会に、西洋文明の歴史や哲学の考え方などについて、関心をお持ちいただければ幸いである。