本

『現古辞典』

ホンとの本

『現古辞典』
古橋信孝・鈴木泰・石井久雄
河出書房新社
\2940
2012.3.

 これは楽しい。「現代語から古語を引く」というサブタイトルが、朱で入れてある。聞き慣れない言葉ではあるが、当然その意味するところは分かる。英和辞典と和英辞典のようなものだ。見出しは現代語、解説は古語というわけだ。ちょっと聞くと、当たり前ではないかという気がするかもしれないが、よく考えると、これが実に珍しいパターンであることに気づく。
 なにしろ、私たちは、古語を書く、または話すという機会に恵まれていない。となると、この辞典の存在意義は何か、ということにもなる。また、だからこそ、こうした辞書がこれまでまともに成立していなかった理由であるとも言える。だから、どこの酔狂な人間が使うか知れないが、一般的には何の関心も引かないものということになりかねない。
 そこで、この辞典には「序」が付いている。いや、たいていの辞書にはそれがある。しかしそれは、挨拶程度であったり、その辞書のメリットやウリなどがあるのと、諸記号の一覧といった役割しか果たしていないことが殆どである。ところがこの辞典にある「序」と「使い方」は、まるで論文であるかのように、そして読み物としても楽しめる程度に、20頁以上にわたり、現代語から古典語へという流れの理解を読者に求める手段をとっている。
 短歌や俳句をつくるにあたり、古語を使うことが雅とされているものであろうか。それがすべてではないにしても、何かしらそこに格調めいたものを感じる心は、現代人としても持ち合わせている。用途としては、そのような辺りしか実のところ、これらの序の部分には載せられていない。殆どお遊びのように、幼児向けの童話を古文に直している試みはそこにあるが、果たしてそれを一般の私たちが必要とするものなのであるか、それをして何になるのか、という点では、説得力のあまりない説明となっている。
 多少の古文調の愛好者や支持者であっても、古典文法を駆使できるほどの人は、そういないものと思われる。だから、この現古辞典を使ったとしても、文法的な処理ができるようになるようには見えない。もちろん、単語としてはクリアできる範囲も多いが、それだけで古文が作れるようになるわけではないだろう。それに第一、そうする必要性や目的がどこにあるか、というわけだ。
 ところが私は、作詞のときに、擬古文ではあるが、古い言い回しを使うことがある。限られた音符に発音をあてはめていくとき、現代語だと字数が多くなり、うまく言葉が乗らないのだ。そこへいくと、古語のほうが、締まっている。少ない音で意味の深まりを追求することができる。また、格調高く聞こえる場合もある。
 それにしても、特殊な実用性ではないか、と言われそうだ。そうだと思う。ただ、現代語が昔どういう言葉として使われていたのか、また語源とまではいかないかもしれないが、言葉の謂われや由来、出自といった方向に目を向けるときに、この辞典は役に立つ。現代語の意味の深みを知りたいときには、重宝しそうなのだ。また、今使われている言葉が、どういう経路から集まってきたか、を知ることもある。たとえば「故郷」は、ふるさと・くに・うぶすな・ざいしょ、と四つの語と使用例が並んでいる。よけいな解説はない。私たちは最初の二つまでは使うが、すでに若い人には「くに」も怪しいかもしれない。しかし背後に他の二つがあることを知ると、イメージ的にも、言葉の背後への深みというものを覚えるのではないか。
 少なくとも私はそうである。たんなる類語辞典としての役割を果たすに留まらない。類語辞典は、同列に並ぶ他の語との親戚関係を探すものであるが、この辞典は、時間的な軸の中で、先人たちが背負ってきたものをそこに重ねていく作用があるからだ。つまりは祖先との関係がここに扱われているということになる。だからやはり、これは言葉の「深み」であるに違いない。画期的であるとともに、これは項目数や情報量からするとあまりに辞典と呼ぶには貧相であるため、今後このジャンルが確立して、さらによいものが作られていくことを願わざるを得ない。




Takapan
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