本

『言語学の教室』

ホンとの本

『言語学の教室』
西村義樹・野矢茂樹
中公新書2220
\840+
2013.6.

 一冊全部が対談となると、二人の思惑が交差して、時に読みづらくなることがあるのだが、これはとてもよく噛み合っていて、楽しかった。それは、西村氏が教師、野矢氏が生徒という役割を演じていたからである。教師の筋道は崩さない。それでいて、この生徒、いや学生といったほうがよいだろうと思うが、この学生がまた的を射た質問を投げかけ、また自分の考えをぶつけ、それに対して教師の側が応えるという形になり、しかもこの学生が積極的で、もちろんこの分野においては猛者であるものだから、話が実に有意義に展開するのである。
 告白されているところによると、対談自体はとんでもなく長く多大な議論がなされ、本にするのはその一部をたいへんうまくまとめたものとなっているらしい。付録として、実際の対談の言葉をそのまま起こしたものが掲載されている。粋な付録である。
 それはそうと、本題のほうは、「哲学者と学ぶ認知言語学」という副題によるものなので、私たち人間の「認知」からの「言語」について学ぶ一冊となっている。
 やはり面白い授業となった意味で目立つのは、「雨に降られた」というあたりだろうか。他動詞でない「降る」について、日本語は形の上で受動態の形をとるという不思議さがある。「子どもに死なれた」というような言い方も日本人はする。そのように考えると、これは自分にとり嫌な思いを表すときに使うことは想像ができる。図らずも、望ましくないことが起こるのである。しかもそこには自分の責任が加わるという意識はない。ところが、本書の指摘はさらに続く。「財布に落ちられた」とは言わないのである。私たちは図らずも財布を失ったときに、「財布を落とした」と言う。これではまるで、私がわざと財布を落としたという意志が表現されて然るべき言い方ではないだろうか。事実、外国語を母語とする人が日本語を学んだとき、この「財布を落とした」はどうしても分からないのだという。いや、考えてみれば日本語を母語とする私にも、分からないのだ。
 いったい言語は、何かしらの感覚や文化、背景を以てそのような言い回しを了解事項として捉えているはずなのだが、私たちはどのような認知によって、この言い方を自然のように感じてしまっているのだろうか。
 高度なレベルの知的ゲームが行われているかのようではあるが、私たちの言語の使い方を顧みることは、自身のものの考え方というものについて気づかせてくれる。そもそも私たちが外国語を学ぶのは、実用的な面もさることながら、自国文化を相対化する働きがあることはよく知られている。自身を客観視する視点というものを、私たちはふだんもたないのである。だが、外国語の立場から、自国語を捉えることによって、おまえはこんなふうに考えているのか、という視点をもたらしてくれるとなると、他者から見た自身についての何らかの考え方を教えてくれるということになる。
 寡聞にして知らなかったが、この度メトニミーということについて私は学ばせてもらった。もちろん、その内容についてはそれなりに気づいていたが、そういう名前で認知的に研究が進んでいたのである。しきりに例として挙げられるからここでも使うが、「村上春樹を読んでいる」というのは、文法的に表面的にだけ見ると、奇妙である。読んでいるのは、村上春樹の書いた小説あるいはエッセイといったもののはずである。だが私たちは普通に「村上春樹を読んでいる」と言うし、そう聞いても何の違和感も覚えない。「洗濯機を回す」というのは、言葉だけに注目するならば、漫才のギャグにもなりそうだ。「川が流れてい」たら大事件になりそうである。
 これは、狙うターゲットの前に、その近くにある参照点を指し示す働きなのだという。これはよく分かる。言語というのは、後から構築した文法による表現だけで論理的に説明が尽きるものではなく、コミュニケーションのために適切な機能を含んだものとしてできたものなのである。その言葉そのものが冷たく命題としてそこに成立しているのではない。人と人とがいて、互いに自分の見たもの思ったものを相手に伝えるために、効果的な方法を使っているのである。
 メタファーについても然りである。後から「たとえ」をレトリックとして編み出しているのではない。なんとか自分の考えを相手に共有してもらおうと思い、努めて、別の周知のものを提供してインフォメーションとして届けようと企図しているのである。どうかこれを分かってほしい、伝えたい、伝わってくれ。「認知」というと、主体たる自分がまずいて、外からもたらされる情報をどのように自分が取り入れるか、というだけの方向で捉えがちになるのだが、この「言語」に関して言うならば、私の考えは少し違う。「伝える」側がその言語を用いたのであるから、なんとか伝えようとした結果の表現なのである。
 本書には、そのような観点からの言及はなかったような気がする。だから私は本書により、自分の想定する構図に改めて気づかせてもらった気がする。刺激の多い、愉しい本であった。




Takapan
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