本

『言語学の教室』

ホンとの本

『言語学の教室』
西村義樹・野矢茂樹
中公新書2220
\882
2013.6.

 二人の対談形式で進むが、対談となるとどことなく退屈であるとか、読みにくいとかいう印象を私は持っていた。というのは、話している二人はその場の呼吸もあって進展する話であるが、外から見ている読者は、その中に入りきれないことが時折あるからである。その場の空気のような情報を全部覚知できない読者は、蚊帳の外に置かれるような思いを抱くことがままあるからだ。またそれは、二人の役割がはっきりしていないからというケースがあるように思われる。それぞれがどういう立場で話をしているかが明確でないために、どう読んでいけば分からないという具合である。それがこの本では、一方が教師、一方がやんちゃな生徒という役柄が最初に明確にされているために、読者は戸惑うことも少なく、読みやすいものだと言える。このちょっとした立場の明確さが、対談を読者に親しみあるものとさせるのだから、小さな配慮というのは実は大きな影響をもつといえる。
 さて、その内容は、章立てがあり、それが一時間目の授業という扱いになっているように見える。そのあたりもはっきりしているから、読者は読みやすい。いや、実のところ、その内容の面白さというものが、一番の理由であるのかもしれない。身近な言葉、誰にでも使える言葉というものが題材である。それは、芸能人が答えるクイズ番組で圧倒的に多いのが国語や言葉の問題であることからも窺える。他の知識は個人差が最初からはっきりしており、その分野では答えがまるで分からないというケースが多々あるのに比べて、言葉であれば、誰もがその都度参加可能だからである。ただ、この本に関しては、それはあくまでも「言語学」である。サブタイトルを見ると「哲学者と学ぶ認知言語学」と書いてある。そう、この場合、「認知言語学」が主役である。
 言語の歴史、言語の成り立ち、構造、語彙など、言葉と言っても様々な側面から捉えることができて、一般に「ことば」についての研究などと言ったところで、何がどうなのかまるで分からないのが実情であるが、ここは「認知」という語が付加されている。これはわりと最近の研究成果なのだそうだ。たしかに、聞き慣れない分野だろうと思う。言語そのものがどのように成立しているか、といういくぶん客観視された立場における理解ではなくて、人間がどのような理解をし、どのような立場で、どうアプローチしてそのような言葉を選び用いているのだろうか、という、どこか心理学的な影響を加味した上での、言語というものの捉え方であるようだ。
 講義形式である。だが一対一の授業であるから、生徒は教師に、おかまいなしに質問を突きつける。教師は一方的に説明を続けていくわけではない。その意味で、これは非常に創造的な営みでもあった。疑問点はすかさず突っ込まれる。また、理解を互いに確認し合うくらいならば可愛いが、反論が呈されて、議論が滞ることもある。その展開の面白さも味わえるシステムになっている。
 また、そういう場であるから、効果的な実例も多い、生徒側から、自分の理解を確認するかのように実例が挙げられて、教師側がそれを褒めたり、それは違うと進行方向を改めたりする場合もある。それぞれが生き生きしているのは、やはり一種のライブ感に基づくのであろう。
 その具体例をここで挙げるのは難しいが、実際現在進行形で、ある意味で始まったばかりのような分野であるだけに、理論が凝り固まっているわけではない部分がある。やや解説が曖昧なように見える場合もあるが、そんなときには生徒側が遠慮なく理解できないことを吐露する。その正直さが、つまり相手の顔色を窺うのではなく、事柄そのものへの関心によって対話が成り立っているために、議論を間違いなく面白くしている。興味深い展開をここに形成させている。ひとつだけ例示すると、「知らない人が私に話しかけました」は、見かけの文法においては何の狂いもない文のようだが、日本人は使わない文であるという。少なくとも違和感を覚えることだろう。そこには、対人関係における心理的な距離感が伴うからであるという。「知らない人が私に話しかけてきました」の文を、私たちは使うのである。しかし英語には、こういう違いにこだわる表現が実のところないのだという。話は時に英語を用い、より言語一般に近づけるような説明の仕方をしているため、ただ日本語がどうだという話でもなくなってくる。その背景の捉え方については、ぜひ本書をご覧戴きたい。お楽しみに。
 ほかにもたくさんの事例により、認知という角度から、言葉についていろいろ考えさせられる。時に用語としても難しいところがあるが、私たち日本人はどうして「子どもに死なれた」というような、英語にそのまま訳せないような言い方をし、またそれが共通に了解されているのか、そんな点にももちろん触れられている。使役という観念が通常と異なっていること、それと受動との関係など、考えさせられる内容が多々あり、刺激を受ける。すべてが理解できなくても、身近な言葉について別の光を当てられるようで、読んでいて楽しい。そして、言葉というものが、言葉として独立しているのでなく、その背後にある存在のみならず、さらに語る立場の人という点に関与しているという、いわば当たり前のことについて、注目させてくれるわけで、私にとり有意義な出会いであったことは間違いないと思う。




Takapan
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