『言語哲学がはじまる』
野矢茂樹
岩波新書1991
\1000+
2023.10.
フレーゲとラッセル、そしてウィトゲンシュタインの三人を扱う。だが、彼らの紹介ではない。題は「言語哲学がはじまる」となっている。
著者は、謙遜しているが、言語哲学の第一人者のひとりである。シャープな切れ味を見せる他の著書に比べて、本書には特徴がある。それは、生徒に丁寧にレクチャーしている、ということだ。これは授業である。こう考えるとこうなる、すると何が問題かな? そう、そうなんだ、だから、そこからこのような考え方に注目してみると、どうやらこうなるのではないだろうか……などと、授業中のような臨場感を覚える読書となる。
だから、時折「質問」が飛び出してきて、その問題を解決するような営みが始まる。もちろん、この「質問」はやらせである。突拍子もない質問を浴びせられることはなく、論を展開して行くにあたり、著者の心の中に起こった疑問、ないしは議論展開に必要なアンチテーゼといったものを、生徒の質問のように挙げてくるのである。
また、説明を続けていくときに、簡単なピクトグラムで「?」のセリフをつけた者が登場する。場面によって多少ニュアンスが違うが、「それでいいだろうか?」であったり、「そこ、議論がおかしくなってないか?」であったりもするだろうし、本当に「それ、何のことか理解できません」というようなところもあるだろう。これはなかなかよい提案であるように思う。つまり、だらだらと文章が書かれていても、押さえどころもあれば、読者が当然引っかかりをもつであろう部分もある。改めてゆっくり説明をしよう、という親切な配慮もあるであろう。何かしら、読者に立ち止まって考えてもらうためには、従来は言葉でそれをほのめかしてきたものである。しかし、本書は明晰である。このピクトグラムによって、ここがそういう曲がり角であることが明白に伝わる。また、その後でより丁寧な説明が始まるかもしれない。
論理学の素養も多少は必要であるが、著者は、できるだけ具体的な例を出して、論理の行方を指し示す。そこで「猫」が使われているので、私としては心地よい。しかもそれはミケのようだ。果たして、言葉が指し示しているものは、その対象と、どのように一致するものだろうか……などと言うと、古代以来の真理概念の説明になりそうである。だがそうしたものは、本書では一切気にしない。この100年ほどの言語哲学の起こりと行方を踏まえながら、いきなら事象そのものへ立ち入り、議論を展開する。
最初は「一般観念論」である。出会う猫たちは個別の猫であるが、その個別性を抽象して、猫の一般観念を心の中に形成するという構造を提言するのである。これはどこか素朴な考え方であり、哲学の歴史をも踏まえている。
しかし、それを真っ向から批判するところから、この新しい言語哲学の存在意義が生じる。まずはフレーゲである。様々な事例と考え方を経て、「固有名、述語、文は、指示対象と意義という二つの意味の側面をもつ」というフレーゲの考える枠組みを明らかにする。それは、「言葉と世界の基本的関係を文の真偽としたところ」だと著者は考える。
そこでラッセルは、この考え方を否み、「意義という側面を認めず指示対象だけで言葉の意味を捉えようと」するのだという。中盤はラッセルで推してゆく。だが、ラッセル自身、大きく考えを変える過程をもっているという。その変化も指摘しながら、著者の眼差しはウィトゲンシュタインへと向けられてゆく。
ウィトゲンシュタインにしても、『論理哲学論考』の立場から後期の考えへはずいぶんと違いがあるように捉えられるべきなのだが、今回は『論考』の筋で押さえてゆく。ラッセルをどう超えていったのかという筋道を重視するからである。逆に言えばそこでは、フレーゲとラッセルの影響が少なからずある、ということになる。
私が本書の中に誠実さを垣間見るのは、「言語」というものを例示するときに、決まって「手話」を並べてくれることである。音声言語と文字言語、というように言語の種類を持ち出すときに、必ず「手話」も比較の中に入れ、説明をすることである。手話は言語である、ということの間接的な証明にもなるであろうが、このように手話をなにげない言語哲学の解説であたりまえのように挙げるというのは、めったにないことではあるまいか。少なくとも私は初めて出会ったような気がする。
ウィトゲンシュタインが果たしてそう考えていたのかどうか、私は判断する力をもたない。ただ、この言語についての検討について、「哲学」というものの行方を彼が見ていた、というように捉えることは、そうだろう、という気もする。しかし著者は、言語について追究しようとしたとしても循環に陥ってしまうという結末に至っている。しかし、どうやらそれでよいらしい。「哲学」について人間は、これまで格闘しながらも、定義づけることができなかったし、この言語についての説明も、さんざんやり尽くしたかもしれないのに、何のまとまりも得ていないのだけれども、著者はもっと「日常言語」というものについて関心を保ちたいとしているならば、それはそれでひとつの成果なのだ、と考えている模様である。なにかしら「説明」をしてしまおうとしたところで、それはむしろ「科学」の仕事ではないだろうか。哲学は、その寸前で科学に引き渡せばよいのかもしれない。「哲学がやるべきは実情を記述し、明晰に見通すこと」だというのは、ウィトゲンシュタインの態度でもあるという。「自分たちが何をしているのか」を捉えることが必要なのである、と。
論理学の解説になると、ちょっと眠くなることがあるかもしれない。だが時折目覚めて話にのめりこむことがあれば、本書は楽しめるのではないか。著者もまた、「面白かった!」と言ってもらえれば満足なのだ、と「おわりに」で述べている。

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