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『現代思想2016.11 vol.44-21 特集・大学のリアル』

ホンとの本

『現代思想2016.11 vol.44-21 特集・大学のリアル』
青土社
\1300+
2016.11.

 特集の「大学のリアル」には、サブのタイトルが付いている。「人文学と軍産学共同のゆくえ」だという。
 時折、大学をテーマに特集を組むことが常態となっているが、私がこれを手に取ったのは、いわゆるバックナンバーとしてであった。当時の空気がいまひとつピンとこないが、大学の改革が、20世紀末から強く動き始め、2004年、国立大学が法人化された。
 細かな過程は、お調べ願いたい。ここでは、本書の内容に触れていくだけとする。
 精神科医の香山リカ氏が、「マッド・サイエンティスト」という言葉により、冒頭で注目を集める。誰もそれになりたくて科学研究をしているわけではない。だが、よかれと信じて道を進んでいるうちに、そのようになってしまうという危険性を説く。この指摘の一番よいところは、自らが営む精神科医が、第二次大戦の時に、大量虐殺に加担したという自覚からスタートしていることである。操られるはずがないとか、科学は平和の役に立つとか、素朴な自己信頼の行き着く先が、そういうことになったのだという、自己を省みる姿勢に好感がもてた。なりたいわけではないが、いつの間にかそうなってしまう危険性。これを私たちは弁えねばならない。特集の最初に置かれるべき、強い戒めであった。
 この後、池内了氏と藤原辰史氏の対談が長く続く。科学者がどうして軍需に吸い込まれていくのかという構造と、後半は大学の変化が辿られ、とくに科学方面で包含する危険なものを指摘する。ただ問題だけを挙げるのではなくて、比較的小さな集団としてのローカルな存在を大切にすること、いまできるのはどういうことかを足元から考えること、そうした具体的なあり方を示し、なおかつ、傲慢な人間が謙虚になることというような、抽象的ではあるが不可欠の眼差しを以て対談を終えている。本書の多くの課題が、ここに盛られていると言ってよいだろう。
 以後、軍事研究と大学との関係が、幾多の人により指摘される。戦時にどうであったかを、いまのうちに見定めておくことの重要性を強く覚えた。いざ事態が急変してから慌てて考えては間に合わないのだ。
 何も軍事目的だけのために、大学が利用されていくのではない。産業とのコラボレーションもだいぶん前から始まっている。地方の大学の窮状の訴えもあった。なるほどその土地の当事者にならなければ見えてこない風景があるものだ。だが、なんといっても、大学を脅かすのは、研究費の問題である。札束で顔を叩かれるようなありさまで、大学は国の言いなりにさせられようとしている。本書の最大の懸念は、そこであろう。そのような視点からの特集であることは間違いない。
 後半では、「男性学」という、必要であるはずなのに欠落している盲点のようなものが示され、ドキドキした。「男性」たるものは当たり前に世界における中心だと見なしていた自分への警告である。それは対象化されねばならない。「男性」の外に立って、それを扱うのでなければならない。これとは関係がないが、「出産」という概念も、哲学でまともに取り上げられたことがない。男性本位の世界での哲学には、自らがどうしてもできないその行為とそれのもつ意味を、問う発想が、なかったのである。これら二つの視点は、いまジェンダーの問題が取り上げられる中でも、なかなかまともに考えようとする人のいない部門ではないかと私は感じている。
 それから、この大学改革への批判として、よく「大学の専門学校化」という言葉が飛び交う。職業目的に大学を動かそうとしているという非難は、政府が、国の経済や外交のために即戦力を求めている背景を指摘することにより、起こっていたと思う。しかし、そこにまた批判の矢を当てる論者があった。いったい、「専門学校」とは何かを何も気にしないままに、当事者が学生たちの何割もいる専門学校を、非難の対象の喩えに用いているのではないか、というわけだ。これは至極尤もである。余りにも、専門学校に失礼な態度なのである。しかも、大学にいる者からすれば、それは専門学校に対する差別意識から来ていることは明白である。この問題は、今後誰もが弁えておかなければならないだろう。また、専門学校に限らず、何かを説明するのに、自分が差別意識をもっているある対象を、見下す相手の位置に置くようにして利用することに、必ず敏感にならなければならないことを、自らに戒めたいと思った。
 大学職員の労働者としてのあり方に光を当てるものもあったが、H大学で同性愛の学生が自死した問題が、当時大きく取り上げられていたと思われ、詳しくレポートするものが複数あった。その問題で、大学がLGBTQの味方であるかのように言うことがあるが、彼らを利用するだけで、人権を第一とするのではなくて、利益目的でしかないという構造を指摘しようとするものもあった。これは、悪質なハラスメントである。なにしろ、自分は当事者の味方ですと宣伝しておきながら、実は自分こそ差別する本人であるという構造をもつからだ。
 注意しなければならない。これを、キリスト教会はすでにやっていると私は見ている。今やLGBTQの味方であるような顔を示す教会があるが、彼らに対して悔い改めの告白をした教会は、まだないと思う。キリスト教会こそが、彼らを迫害し、死に追いやり、病気だとして徹底的に差別をしてきた張本人ではないのか。しかも、聖書に照らし合わせて、それを正当化し、自分は正義のためにやっているとの認識から、極悪な仕打ちを続けてきたのである。偽善者とは、こういう時のためにある言葉ではないのだろうか。
 私も、そこにいる。だから、そこにいないようにしたいと願っている。医療従事者のために祈ることもなく、むしろ医療従事者を迫害することを正義とすら言いさえする教会組織には、私はいたくないと切実に考えている。




Takapan
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