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『「終末論」を考える 現代思想11 2025vol.53-14』

ホンとの本

『「終末論」を考える 現代思想11 2025vol.53-14』
青土社
\1800+
2025.11.

 時折関心の強い分野の特集があれば購入することにしている。雑誌『現代思想』。岩波の『思想』が、特集によってはたいそう高い価格になったのに比べると、まだ価格的には納得できるままに発行されているように感じられる。
 今回は「終末論」がテーマである。この世界の終わりを見つめる人間の考え方は、「いま」どうなっているのだろうか。
 もちろん、形而上学的に考える道もあるだろう。教義に基づいた宗教的観点もあるだろう。宗教という分野では、そうした「終わり」を設定して、そこへ向けての救いを説く、というスタイルは大いにありうることであって、ユダヤの背景をもつ考えが、世界のスタンダードになっているとも言えるだろう。
 だが、救いという次元ではなく、単に地球環境の悪化や、殊に人類絶滅という想定となると、宗教的教義とは無関係に、私たちに確かなものとして迫っている。しかもそれが、彗星の衝突といった不慮の災害ではなく、人間が環境を破壊する自業自得ということになると、自分たちで止められるではないか、という猛省に繋がるところなのであるが、現状はそのようには見えない。SDGsという、本来深刻な目標も、お洒落に彩られて、余計に破壊への助長を招いてさえいる。核戦争への関心は一時より薄れているし、経済成長と言う自己義認は決して終わることがない。
 そうした中で、宗教的な終末ということで、日本に於ける「オウム真理教事件」は、やはりインパクトがあった。自ら終末をもたらそうという、幼稚ではあるが現実的な破壊行為がなされた故である。
 特集記事の最初には、しばしば対談が掲載されているのだが、その中で森岡正博氏が「終末論とは非常に差別的、さらに言えば優生学的な議論と言えます」と発言しているのは注目に値する。人類が絶滅するという危機よりも、その中で生き残る者がいる、という設定が多いのである。空想小説やアニメーションでも、盛んにそうした設定がなされている。そこには、「自らが神になろうとしていかのような」要素があるのではないか、という視座も提供しながら、終末論が消えることはないし、「終わりなき日常を生きろ」という言葉に沿うしかないのだろう、というふうにもなってゆく。
 以下、17名の論者により、様々な「終末論」が論じられてゆく。それは幾つかの項目に分けられており、それだけを並べると、「危機感と政治」「イマジネーションの古層へ」「信じる者は救われるのか」「未来との(いくつもの)つき合い方」そして「行く末のための哲学」となっている。
 それぞれの論文についてコメントしてゆくことは勘弁戴きたいが、同じ「終末論」という名前に於いても、様々な次元がある、ということを教えてもらうだけでも、本書のような特集の組み方には意義がある。ひとは、自分がちょっとイメージするだけで、その言葉を理解しているかのように錯覚しがちなのだ。「終末ファシズム」や「ディストピア」を考えることも必要だろうし、そもそも世界で古来見つめられていた終末論を掘り出す営みも大切だろう。
 そしてギリシア哲学がサロン的な論議であったのとは違い、正にいま政治が終末の鍵を握っているということなど、深刻な情況は消せない。なにしろ人間は、現実に世界を破壊する兵器を手にしており、為政者の気分一つでそのボタンを押すというようなこともあり得るようになってしまっているからだ。だが、人々はえてして優雅に、ひとつの可能性などと断りながらも、終末を話のタネにするような真似もできる。否、たいていはそうした情況であるとさえ言える。
 そのような中で、「カントの終末論」を真っ向から論じた、寺田俊郎氏の論文は、私がその内容をそれなりに知るだけに、非常に興味深く読むことができた。その方面で、地道な活動をしている著者のようだが、現実の戦争や平和に対する強い眼差しがそこに感じられた。
 カントには「万物の終わり」と呼ばれた論文がある。本論文では「すべての物の終わり」と訳されている。もちろんカントのことである。終末を形而上学的にどうのこうのと述べることが、理論理性にはできないことは分かっている。だが、実践理性からは、それを理解することができるし、せいぜいのところ望ましいということは、確かに言えることだとするのである。そのとき、「時間の終わり」のことが、私たちのいう「永遠」ということなのであり、それは人間の、「「可想界」と「感性界」を同時に生きている」というあり方が、「「永遠」に接しつつ生きている」ということと関係している。理性は、ただ道徳的に人間が進歩してゆく、ということで満足はしないのである。筆者はそれを、十分には分からない、と告白する。カントにはカントの言い分があるのだろうが、現在に私たちにはそれがぴったりと重なる理解や心情を持ち合わせていない、ということであろう。ただ、現在世界に飛び交う「終末ファシズム」と呼ばれる現象に対して、適切な批判をもたらすヒントになるのではないか、という提言を掲げている。カントが当時のキリスト教や王国政府に対して批判する気持ちから終末論を展開したように、人類は、まちがった「終わり」へと突き進んではいけないのである。
 その批判対象は、キリスト教でもあった。キリスト教はいま、巷で懸念されている「終末」について、どう応えるのだろうか。私は、どう応答しなければならないのだろうか。
 なお、本号には、本誌に連載を長く務めていた佐藤文隆氏への追悼の言葉が少々載せられている。9月に逝去されたのだ。宇宙物理学の分野で、私たちにも分かりやすい説明を施し、新しい宇宙観を教えてくれた。こうした雑誌で、追悼の言葉が載せられるのはよくあることだが、やはりリスペクトという姿勢を示すものとして、相応しいものであるようにも改めて思わされた。




Takapan
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