『現代思想04 特集・教育は敗北したのか』
青土社
\1800+
2025.4.
サブタイトルに、「新自由主義教育・子どもの貧困・闇バイト…」と掲げている。教育課程やその内容というよりも、人を育むという広い視点を有しているように感じられる。それは、社会人になるということへのつながりのために、子どもがどう教育されてゆくと良いのか、という辺りに関心が及ぶということなのかもしれない。
そのためには少しセンセーショナルな特集タイトルでもあるし、さて、その問いに対する答えはイエスなのかノーなのか、それは必ずしも本誌が決めていることではないだろうと思う。恐らくは、読者が判定し、あるいはその問いに答えるべく考えてほしい、ということでもあるだろう。それは、必ずしも教育現場に関わる人だけを対象にしたものではないように思う。社会人として、どういう教育政策を支持するのか、まで考えると、すべての大人に責があるとしなければならないはずである。
討議「誰もがエリートを目指さない教育のあり方へ」から始まり、「学生・若者の貧困」から「こども家庭庁」、そして「ケアする学校」の理論を考える論考が続く。
次は「学校給食」という具体的な場面を検討するかと思うと、「存在証明を脅迫されることのない学校」を目指したい思いが迫るものもくる。これは、同性愛者としての筆者が学校で経験したことを示すことによって、その暴力性を明確にするものである。詳しく書かれたのは一例かもしれないが、むしろその特殊な事例によって、普遍的な訴えを纏うことになるのではないか、とも思う。そのことは、「優生思想」が今に生きていることの指摘へとつながってゆく。そこでは、障害者教育とインクルーシブという概念との現在を問うている。
社会問題化しているものとして、「部活」についても、具体的に斬り込んだ論考がある。教師の実態がこれほどはっきりぶつけられてくることは、普通の報道ではなかなかないかもしれない。また、言葉という切り口から、「ちくちくことば」と「ふわふわことば」の現状を教えてくれるものもある。それで子どもたちに一種の道徳を教え込もうとしている点について、これは長持ちするものではないだろう、との見通しを示している。さらに、「ナラティブ」に触れたものが、次の「長崎の平和学習」へとつながってゆくような気がするのは、そういう並べ方をした意図であるだろうか。
同じ「貧困」でも、子どもの実態と共に、教室での教師がその自覚があるのかどうかを厳しく問うものもあった。そして、「助けて」と言えばいいのに、という管理者側の言い訳が通用するものではない、という指摘も、痛い。「助けて」と言えないのはどうしてか、そしてそれが通常であることに、大人は気づかねばならない。否、これは子どもだけの問題ではあるまい。そして「海の底」という象徴的なタイトルの論文は、離婚家庭の養育費のことを紹介しており、これは決して例外的な事態ではないことを、改めて突きつけられる。家庭の数だけ問題の種類があることは覚悟するものの、法的に、政治的にどうにかできないものかと思わされる。
終わりのほうでは、いっそう広い視野で教育に関わることが挙げられる。ここは通常教育問題を論ずるときに触れられないような内容が集まっており、興味深い。ミクロネシアなどでの学校教育をレポートしてくれると、近代国家体制の中でどう教育が与えられていったかという世界をいまに見る。もちろんこれは、日本の明治期以来の歴史を見る眼差しを育んでくれることだろう。また、消費者教育という特殊な分野と、具体的なメンバーを通して、イベサー界(イベントけいサークル)を描き、サブカルチャーの世界から、それでも経済的に自分を大きくしてゆく若者たちについて教えてくれることで、特集は結ばれる。
教育は、これで万全、という終わりのない営みである。その都度、次の世代をどう創造するかについては課題が異なり、問題は尽きず対策も怠けているわけにはゆかない。だから、敗北してはならないし、教育そのものが敗北してしまうこともない。ただ今回の特集では、個人としての「親」という立場については深められているとは言えなかった。教育制度や社会教育ということについて、様々な視点が取り入れられているのはよかったが、その次にまた、育っていった子が親となる場面が必ずくることへと視野を拡げてくれたらよいと思う。自分たちもまたそう思われていただろうが、次の世代の「親」たちが、自分の子に教育ができていないということを、日々見せつけられている者として、互いに非難するのではなく、互いに未来を創ってゆく目的で、歩み寄り、耳を貸し合うような社会でありたいと願うのであった。そのような方向に進もうと提言し、実践するのも、また「教育」であるはずである。

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