『現代倫理学入門』
加藤尚武
講談社学術文庫1267
\970+
1997.2.
20世紀末の情況ではある。ここで「現代の道徳的なジレンマ・難問を中心にして組み立てられている」という本書は、具体的に「臓器移植や環境問題、ナチスとアンネ・フランク」ということを「まえがき」の冒頭で挙げている。いま読んだのが2025年。もう30年ほどの時を経て、私たちはさらなる課題に向き合っている。
しかし、原理的に倫理を考えるということに、無駄はないだろう。もし科学の発展や社会の変化が倫理を変えてしまうならば、正にそのこと自体が、倫理の課題隣るはずである。現に本書でも、その点を考察するように促されている面があるから、「現代倫理学」という看板は決して時代遅れではない。
著者が挙げる「現代倫理学の特徴」としては、「脱宗教的な世俗性」「市場経済が背景にあること」そして「多数決原理が認められていること」となっている。またこれらを、「功利主義的、自由主義的、民主主義的性格」とも表現している。
このような点を知るために、この「まえがき」は簡潔で有用である。また、そこに「現代の倫理にもっとも近い古典」として、J.S.ミルの『自由論』(1859年)を挙げているのにも目が留まった。こうしたレクチャーは、読書をする者としてとてもうれしい。何を読めばよいか、の指針を与えてくれるからである。
本書の魅力を紹介するために、それぞれ10〜20頁ほどにまとめられた章のタイトルを例示してみよう。「人を助けるために嘘をつくことは許されるか」、これは当然カントをやり玉に挙げることになるが、なにもカントを吊し上げるのが目的ではない。「10人の命を救うために一人の人を殺すことは許されるか」とは、比較的最近流行ったトロッコ問題としても話題にされたようなことだが、極端な事例でパズルのようにするものではなく、「倫理」と名のつく問題に於いて、確かに考慮すべき点が含まれているだろう。つまり、私たちは何を以て判断の原理としての価値を置くか、ということである。
ところどころ拾うが、「エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか」「どうすれば幸福の計算ができるか」などは、旧い問題であるにしても、新しく見るべきことだと言われたら確かにそうであろう。「判断能力の判断は誰がするか」も、もどかしい。子どものことを親が判断してよいか、という辺りでは日常的な問題だ。もちろん、認知症や障害者の点では、もっと深刻であろう。
かと思えば「思いやりだけで道徳の原則ができるか」といった、実際的ではないような話題も出てくるが、実はこうした、より原理的なところは、そもそも倫理を生み出す原則として作用するので、そこさえも検討しようとするならば、ここでいう「倫理学」も、二つの方向性を以て捉えたほうがよいかもしれない。つまり、現実の場面に適用するための、あるいは適用できる倫理と、その倫理観を抱く人間の思想の側の哲学的な視座とである。
しかし「正直者が損をすることはどうしたら防げるか」は、実際多くの人にとり悩ましい問題であろう。ここには「囚人のジレンマ」という有名な思考実験が挙げられているが、私もかつては正義感の中で、この問題が最大のものであるような気がしてならなかった。しかし、所詮防ぐことはできないだろう、というのが私の見解である。それが防げた社会をつくることは不可能だ、と。人間の中から邪悪を消滅させることができるかのように問題設定すること自体が、無意味なのだ、と考えている。
愚行権とでもいうのか、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」という問いもある。だが、「何をしてもよい」はずはないし、そのとき「よい」という言葉の意味についても、実のところ考察を向けなければならなくなるだろう。
ただ、「現在の人間には未来の人間に対す義務があるか」という問いかけは、益々深刻になっている。逆に言えば、20世紀のときからこの問いが挙っていたわけで、SDGsが叫ばれてようやくいくらか認識し始めた、という現状は危機的なのではないか。しかも、こうした深刻さが世界には殆ど顧みられていないという事実が、よけいに悲しい。未来の人への犯罪であるのか・ないのか、そんな悠長な思考ゲームを、ギリシアやローマの裕福な市民が退屈凌ぎに議論ごっこをしているようなつもりで楽しんでいる場合ではないのではないか。
なお、この議論のとき、日本人の考え方にある「恩」という概念が取り上げられたのはよかったと思う。何も西洋の歴史の中に生まれた思想だけが倫理ではない。「もったいない」にしてもそうだが、日本人が知る考え方を、グローバルに提言することが必要であるような気がする。それは世界のためになるかもしれないし、人類全体に益となるかもしれないからである。そしてそれこそが、現代に必要な「倫理」であると思うのである。

た
か
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