『現代に信仰は可能か』
H.ティーリケ
加藤常昭訳
\750
1970.12.
もう存在しないヨルダン社の発行で、発行後半世紀以上を経て、私はこれを初めて手にした。いまどき、こんな本を読む人がいるのだろうか。古書扱いだが、きれいなものを届けてもらった。
三つの独立した文章をひとつに収めている。それでも250頁ほどの中に落ち着いているから、一つひとつがそう長いものではない。それぞれの発表は全く別々の機会であるが、深い関連をもつということで、訳者がひとつの本とした。訳者がドイツに留学しているとき、ティーリケ教授の講義にも加わっている。加藤常昭先生が、福音と信仰の理解においていまの時代に必要と覚えたために、ドイツ語版から最初の二つは三年後にこうして日本の読者の目に触れるようになった。これが半世紀後、こうして一人の読者の胸にしっかり届いている。
現代に信仰は可能か。もちろん、可能だ、と言いたいはずである。逆に言えば、現代で信仰が瀕死の状態であることを憂えていることもまた事実であろう。「あとがき」によると、執筆当時、ブルトマンなどによる聖書の批評的解釈に対する反発の声が激しく挙がっていたらしい。しかし、新聞はこのとき、ブルトマン主義者の勝利を書き立てたという。ドイツで福音を語るという場面は、危機の中にあったのである。
サブタイトルとして、「神学の課題と説教の位置」と掲げられている。神学を真っ向から問うと共に、そこに説教の力というものを見ているのであり、訳者の志向と合致することは間違いない。説教というものを大切に考えるならば、たとえ半世紀を経たとしても、私たちはこれを受け止めるだけの価値があるものと理解すべきだと私は考えている。
最初の「神学はどれほど現代的でありうるか」は、一般信徒向けと見てよい、と訳者は後で触れている。聖書のイエスの物語、特に奇蹟の物語をどう受け止めるべきなのか、それはもう19世紀からずいぶんといじられ続けてきた。だが、ティーリケは言う。「私どもはイエス・キリストの教会に集められているのだということ、私どもはその言葉を聞き、彼を賛美し、彼と共に語っているのだということ」(p43)と宣言するのだ。そして、聖書の言葉、イエスの言葉は、いまここに響いてくるものである、ということを強調する。概して、信仰というものは、この聖書の言葉を、いま自分がどう受け取るか、自分が聖書の中に置かれているというほどの、体験的な理解が必要であることが、叫ばれているように感じる。だがこれは、本当は至って当たり前のことではないか。「私どもは主の言葉によって生きております」(p100)というのも、いまさら改めて言うほどのものではないはずではないだろうか。それが、現代では、酷く歪んでしまっているだけではないのか。ティーリケが「私は、説教が神学に対して優位を占めているという確信、そして神学はただ、すでに聞いた説教から始まって、その説教の根拠を問い返すものなのだという確信を持っております」(p133)と言っている言葉に、賛同できないほどに歪んでいるのではないのか。そう問うてみたい。
後の二つは、神学生や牧師に向けてのものだろう、と訳者は告げるが、それは「聖職務に対する今日の神学生の不安について」と「神学者のための小教養書」と題されているから、確かにそうだろうとは思う。だが、前者は、神学校教育を考えるときに、一般信徒にとっても無関心であってよい問題ではない。もちろん、日本とドイツの事情は異なる。神学生の置かれた情況も異なるわけだから、神学生の不安と説かれたものが日本の神学生問題にどう関わるかは微妙である。だが、疑いの眼差しが聖書に注がれる中で、当時ティーリケなどが目撃した情況は、半世紀遅れて、ようやくいま日本がそこに届いているのかもしれない、という考えは、構えておきたいような気がする。特に、新たな神学によってめちゃめちゃにされる信仰というものに警戒しなければならない。聖書からではなく、注解書に頼る信仰のあり方について、特に気をつける必要があるだろう。
特別な言葉を以てティーリケは語ることがある。「神学的な声変わり」というのが面白い。声変わりの時期に無理に歌うことは禁物であるように、成長期に、説教そのものを急いではいけない、というのである。福音的な信仰から始まった学生が、すっかり変貌してしまう事例も挙げる。こういう例は、私の身近にもあった。復讐の刃を向けて、福音理解を潰そうと生涯を懸けるのである。
だから人を生かす説教を語ることを志したいところである。ただ、「神学は決して説教を《基礎づけ》うるようなものではない。説教そのものと同じようなまなざしを持つだけである。神学もまたそれなりに証しである」(p232)と著者は言う。こうした言い方は、サブタイトルからして当然のことであるが、「神学的努力は、信仰の行為そのものに含まれている」(p232)という点を、たとえ神学生ではなくても、私たちは忘れてはならないであろう。
結局、記憶しておきたいことは、次のようにまとめられているように思う(p241)。
「神学の方法の特質をつくるのは、神が語られたということ、そして神によって語られたそのことは、理解し、またそれに答えうるものだという状況を勘定に入れているということである。しかしながら、この語られたことを、
1 私が自分に向けられたものであると認識し、
2 これに答えることによって、自分もこれに関わっていく、
という仕方でのみ、理解されなければならないのである。」
訳者は、自信をもって訴える。「現代のドイツ社会と教会の状況を、著者独特の現実的な感覚で考察しながら、会衆に直接語りかける説教をなし、また現代の説教者をつくる神学教育に情熱を燃やすティーリケの、その仕事の現場から生まれたものが本書です」(p266)と。私たちは、まだこの理念を、実現できていない。

た
か
ぱ
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ワ
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